【中島輝士 怪物テルシー物語(63)】大沢啓二監督が指揮を執り日本ハムは1993年に2位と躍進します。優勝した西武とはわずか1ゲーム差でした。ですが、野球とは簡単にはいかないもので、94年は苦戦を強いられます。監督就任2年目の大沢さんは「94年は93年の勢いのままいけると思っていた。はっきり言って、自信もあった」と話していたように、評論家の評価も高かったと思います。

 このシーズンは横浜から自由契約となった高木豊さんを獲得して開幕3番・左翼で起用されているんですね。横浜ではスーパーカートリオとして一時代を築いたスター選手です。今ではユーチューバーとして有名ですね。過去に8度の打率3割を記録した高木さんですが、このシーズンは65試合の出場で打率2割4分9厘、11打点という数字でした。大沢さんは自身の著書の中で「あいつはもっとやれると思っていた。けど、やっぱり力が衰えてたんだなあ。打線のブレーキになっちまった」と書かれています。

 他にもローテの一角を担っていた柴田保光さんの心臓疾患、マット・ウインタースやリック・シューも前年より数字を落とすなど誤算が続きました。結局、全ての月で負け越しとなり46勝79敗5分け、勝率3割6分8厘と低迷し最下位に沈みました。

 大沢さんに私は「佐賀の殿様」というニックネームを付けられて、よく「おーい、殿様。ぬぼーっとしてんじゃないよ」と声をかけられました。「殿様みたいにヒゲを生やせよ」と言われたんですが、私はかたくなに拒んで応じませんでしたが…。私自身も打率2割に届かず悔しいシーズンとなりました。

 これは言い訳なんですが、この頃には腰の状態が良くなくて、風呂で温めたりしていたんですが状況は好転しませんでした。なんというんですかね。プロ野球選手として毎日、練習を重ねて頑張ってはいるんですが、この頃の自分は何をしていたのか、今振り返ってみてもあまり覚えていないんです。もう、自分の残した数字も見たくないですもんね。

 東京ドームでの最終戦となった9月28日のロッテ戦試合終了後に大沢監督がファンの皆さんの前で土下座したんです。「最下位になったのはすべて私の責任です。ファンの皆さまには大変申し訳なく思っております」って。シーズン終了後には打撃の師匠だった大島康徳さん、柴田さん、高木さんも引退しました。

 95年、前年の最下位からの巻き返しを図るチームは90年までオリックスで監督を務めていた上田利治さんを新監督に招聘しました。すると、上田監督はチームの刷新に取りかかりました。私も94年には代打だけではなく、スタメン起用もしてもらっていましたが、控えに回ることが多くなっていきました。

 悔しかったですが、これは仕方ありません。この95年が私がドラフト1位で獲得してもらった日本ハムでの最後のシーズンということになります。