【中島輝士 怪物テルシー物語(64)】1995年、私がドラフト1位で獲得してもらった日本ハムでの7年目のシーズンです。このシーズンで私は日本ハムを退団することになります。前年までの大沢啓二監督が退任され、後任には90年までオリックスの指揮を執っていた上田利治さんが就任されました。

 上田さんは、この年から外野手だった田中幸雄を遊撃手に再コンバートするなど、チームの変革に着手しました。長年、セカンドのレギュラーだった白井一幸さんは秋季キャンプ中に戦力外通告を受けオリックスへ移籍。正捕手だった田村藤夫さんもロッテへトレードされました。首脳陣と対立し2試合の登板に終わった武田一浩はオフにダイエーへトレードされました。同級生のゲンちゃんこと河野博文は巨人へFA移籍していき、チームカラーはガラッと変わりました。

 新戦力で言うと前年途中加入のキップ・グロスが16勝で最多勝。守護神・金石昭人さんはキャリアハイの25セーブを挙げました。「ファンの皆さん毎度!」で後に人気を博すことになる、若手の岩本勉はシーズン後半から先発ローテに加わり規定投球回数をクリア。リリーフでは4年目の島崎毅が51試合に登板し、9勝3セーブを挙げるなど台頭してきました。4番・遊撃で130試合にフル出場した田中は打点王、ベストナイン、ゴールデン・グラブ賞を獲得し飛躍の年になりました。

 そんな中で私は自己最少となる33試合の出場にとどまり本塁打もプロ入り以来初の0本に終わりました。打率2割3厘、5打点。これが日本ハム最後のシーズンの成績です。オフには球団からウエーバー公示される形となり、他球団で現役続行という流れとなります。

 私は多くは起用してもらえませんでしたけど、上田監督は一緒にプレーした指揮官の中では最も監督としての裁量に優れた指導者だと感じました。それまで近藤貞雄さん、土橋正幸さん、大沢さんと、それぞれ一緒にプレーしました。それぞれに良さもありましたが、勝ちに徹するという部分で上田さんが一番だったのかなと今になって思いますね。

 日本ハム退団後の進路ですが、この時に声をかけてくれたのがヤクルト、近鉄、ダイエーの3球団でした。私は当時、都内に住んでいましたからヤクルトというのは引っ越しも必要ないですし、いいなと思ったことは事実です。ダイエーは私の母校・柳川高がある福岡県を本拠地としていますから、最後に故郷で花を咲かせたいという気持ちもありました。

 近鉄があった大阪には地縁はありません。でも、この時は妻とも相談して「何もご縁のない土地に行こう」ということになりました。この移籍に関しては私に選択する権利がありました。自分で選んで近鉄にしたんです。それが95年のオフですからね。もう、それから30年もの月日が経過しようとしていますが、何のご縁か今でも大阪府内に住んでいますから不思議なものです。