【中島輝士 怪物テルシー物語(61)】プロ入り4年目の1992年、私はキャリアハイの成績を残すことができました。それでもチームは終盤戦の失速で最下位のロッテと0.5ゲーム差で5位に沈みました。その結果、2年契約だったはずが、土橋正幸監督は就任1年目で退任。球団常務だった大沢啓二さんが9年ぶり3度目の日本ハム監督に就任されました。
大沢さんは野球ファンの皆さんなら印象深い人物でしょう。あの「大沢親分」です。日本プロ野球OBクラブ理事長、名誉理事長を歴任。昭和のレジェンド選手たちからなる「モルツ球団(現プレミアムモルツ球団=サントリードリームマッチ)」の監督・総監督も務められました。
近年で印象的だったのはTBS系「サンデーモーニング」内のコーナー「週刊御意見番」での「喝!」というフレーズでしょう。2010年10月7日に78歳で逝去されたのは本当に残念でした。球団常務だった時代には契約更改で「子供が生まれたんでアップしてください」とお願いしたら「よし、ご祝儀だ」ってポンと100万円単位で年俸をアップしてくれたこともありました。ユーモアがある人情味の厚い人でした。
93年は大社オーナーの説得もあり、大沢球団常務から監督に異動。そのシーズンからオレンジ色を基調としたユニホームから縦じまに変更されました。投手陣は西崎幸広、柴田保光さん、武田一浩に加え、先発に転向した白井康勝がローテを形成。中継ぎに酒井光次郎、芝草宇宙がいて守護神はドラ1の山原和敏でスタートしました。
ですが、新人には負担が大きかったのでしょう。山原は不振と故障が重なり戦線離脱。開幕前に故障離脱していた前年14勝の金石昭人さんが守護神に固定され、盤石の布陣が整いました。
打撃陣では4番にマット・ウインタースが固定され、この年から加入したリック・シューが中軸を固めました。右ヒジ痛で前年を棒に振った田中幸雄がシーズン中盤から外野に就き、広瀬哲朗さんが遊撃に入り、白井一幸さんと1、2番コンビを組みました。
大ベテランの大島康徳さんも代打で活躍するなどチームの快進撃を支えました。3連覇中だった西武とデッドヒートを繰り広げ、日本ハムが大いにパ・リーグを盛り上げたはずです。
そんな中、私は出場機会を減らしていました。新助っ人のシューが一塁に入れば、昨年まで一塁に固定されていた私はどうなるでしょうか。そうなんです。プロ野球は待ってはくれません。未完の大砲として期待されても、チャンスを与え続けてもらえることはないんです。チームは勝つために補強を行います。私のポジションは一塁、右翼。当然、より打つ選手が求められます。刺客というわけではないですが、チームの補強ポイントとして新助っ人やドラフトの目玉選手を獲得しにいくというものでしょう。
このシーズン以降は私の出場機会は減少傾向に入ります。チームは首位・西武を追い上げて盛り上がっている。私もその一員として必死に戦ってはいます。ただ、新助っ人のシューが活躍するほど私が出られる機会は少なくなっていきました。












