【中島輝士 怪物テルシー物語(65)】1988年のソウル五輪4番打者としてドラフト1位で日本ハム入りし、89年からプロとしてのキャリアを積んでいくことになりました。そして95年オフ、慣れ親しんだ日本ハムのユニホームに別れを告げ、96年から佐々木恭介新監督を迎える近鉄に移籍することになりました。     

 95年に最下位となっていた近鉄はチームの変革を進めている矢先でした。打者では22歳の中村紀洋や20歳だった大村直之が一軍で頭角を現していました。27歳のタフィ・ローズが来日1年目のシーズンでもありました。

 当時33歳だった私から見たローズはまだ子供な印象がありました。ロッカーが隣だったのでいろんな話をしました。当時はまだまだデータ野球というものが浸透まではしていなかったですが、ローズは早くから助っ人に対する攻め方をよく研究していましたね。「自分には真っすぐを投げてこない」とグチるのではなく、それならばどういう攻め方をしてくるかということを勉強していました。その後、シーズン55本塁打を打つような選手になるとは全く予想できなかったですが、頭のいい選手でしたね。

 当時の主力、4番打者にはプリンスホテルの後輩・石井浩郎がいました。しかし、開幕2試合目の3月31日、ファウルを打った際に左手有鈎(ゆうこう)骨を骨折。手術を受けましたが経過が思わしくなく、このシーズンは開幕2試合のみの出場に終わってしまいました。オフの契約更改交渉では大幅ダウン提示を受け交渉が難航。最終的には97年1月14日に吉岡雄二、石毛博史とのトレードで巨人に移籍する形となりました。

 私自身は近鉄での移籍1年目、42試合に出場して打率2割2分7厘、本塁打ゼロ、5打点という成績でした。私の現役は97、98年と続きますが一軍出場はしていません。現役最終年の98年には、ほぼコーチ兼任のような形でプレーしていました。

 当時の足高圭亮球団本部長から「佐々木監督は今季はもう一軍での起用はしない意向であり、来季は指導者として球団に残ってもらいたいので若手の世話をしてやってほしい」と話をされました。

 野球選手にとっての現役生活はそれぞれに思い入れなどもあると思います。私の場合は、こんなことが感慨深かったなど、そういう感情は特になかったように思います。淡々と受け入れていたというイメージでしょうか。もちろん妻や母、恩師には報告しましたが、特別な感情が湧いてきたわけではありませんでした。もう、昔のことだから忘れてしまったのかもしれませんが…。

 現役最後の頃は自分の数字であるとか、そういうことをあまり覚えていません。後で振り返れば幸せな時間を過ごしてきたことを自覚はします。現役10年間で通算453安打、52本塁打、225打点、打率2割5分1厘。うまくいかない自分に対して「もっとできたんじゃないかな」という思いが強かった現役時代でした。