【中島輝士 怪物テルシー物語(66)】1998年シーズンをもって私の現役生活は幕を閉じました。99年からは近鉄の二軍打撃コーチとして指導者の立場で野球に携わることになりました。ただ、打撃コーチとしてのシーズンは実は99年シーズンのみで、2000年からはスカウトに転身することになります。

 当時の足高圭亮球団本部長からは再び、コーチとしてチームに戻ってもらうからという説明を受け新たな道へ進むことになりましたが、最初は素直に喜べない自分がいました。

 このスカウトという道は人生の分岐点にはなりましたね。プロ野球の世界を見続けてきて、今さらアマチュア目線で野球を見るということが自分にとっては難しい課題でした。その選手が現状から将来、どれくらい伸びるかなんて予想はつきません。

 私はスカウト1年目の夏ごろ、球団からもらっていた有望選手のリストから全ての名前を消していました。誰も無理だろう。プロでプレーするには何かが足りない。こんなのやってられるかという気持ちにもなってしまいました。

 00年の高校生の素材の中では大分工高の内川聖一(後に横浜、ソフトバンク)、柳川高の後輩でもある香月良太も力はあるなと感じてはいました。ただ、私がその2人のその後のプロでの活躍を予想できたかといえば、そんなことはありませんし、この段階ではまだスカウトとしての仕事に魅力を感じることができていませんでした。もう、1年で辞めようと考えていたほどです。

 ユニホーム組として活動している時代には、チームマネジャーが新幹線や飛行機、ホテルの手配など全て問題なくこなしてくれます。ただ、スカウトになると実際に新幹線の切符の買い方や飛行機の予約の取り方、ホテルの予約の仕方も自分でやるしかない。

 あの時代にはまだスマホもありませんからね。インターネットで予約なんて便利なシステムも普及してなかった。ホテルは電話帳などで調べて電話して予約を取ったものです。本屋さんで売っていたあの分厚い電車の時刻表なんて覚えていますか? あれを開いて、乗り継ぎのいい電車を調べて地方都市の視察に行く計画を立ててと、生活が一変しました。

 携帯はありましたが、みんなが持ち歩いている時代ではないですからね。学校に直接電話を入れて、頭を下げてよろしくお願いしますと。スカウトとしての視察もここから始まります。それからですね、社会人としてしっかりやれるようになったのは。遅い!とツッコミを受けるかもしれませんが、それが現実です。

 それまで当たり前だったことが、当たり前ではなくなり、自分がこれまでいかに多くの人に支えてもらっていたのかを痛感しました。もちろん、気持ちでは分かっていたつもりでした。でも、本質的に理解していたのかというと、本当の意味での感謝の気持ちを分かってはいなかったのかもしれません。

 高校野球でプロ入り確実とされながら、社会人野球で右肩を痛め投手を断念。そこから野手に転向したことと匹敵する人生の転機が、引退後のスカウト転身でした。