板東VS村椿の死闘に震えた第40回大会 それぞれのドラマ

2019年09月07日 11時00分

徳島商から中日入りした板東英二のピッチング

【ネット裏 越智正典】昭和31年、富山県立魚津高校に入学して来た村椿輝雄は目立たない生徒だった。しかし、監督宮武英男は、半年間は雪に埋まるので単調になりがちな体育館での練習に耐えられる生徒だと思った。

 宮武は昭和3年、都市対抗で優勝した大連実業の遊撃手。敗戦後シベリアに抑留され、帰国後、不思議なアヤから魚津高校の監督を引き受けていた。村椿は聞いてみると、漁に出る父親を助けて小舟を漕いでいたという。

 あっという間に冬。この1年生は夜遅くまでたったひとりでシャドウピッチング。ふた冬を越えた33年7月31日、魚津高校は富山大会決勝で滑川高校を破って第40回記念大会へ出場を決めた。沖縄代表を加えて47代表が勢揃いする。蜃気楼の町は沸いたが、村椿が「ヒジが痛いんです」。市内の病院を回ったがわからない。「このまま投げたら一生台無しになる」。いきなり本人に言った医者もいた。

 出発前日にスポーツ専門の大阪厚生年金病院の清水源一郎博士が魚津中(高)の先輩なのがわかった。訪ねると「たいしたことないよ。大丈夫だ」。村椿の顔が晴れた。宮武は励ましにまさる教育はない…と感謝した。

 1回戦浪商を2対0。2回戦、東京大会で王貞治の早実を破って出場を決めた明治高校を7対6。王は野球部長箱岩徹と明治高の出発を東京駅で見送った。3回戦桐生高校を3対0。

 準々決勝。徳島商業とぶつかった。徳島商の投手板東英二は引き揚げ児である。昭和20年8月はじめ、板東一家が暮らしていたソ満国境の町にソ連の戦車隊。

「4人の子供を連れて逃げました。あの子は泣きながら鉄道線路を歩いて来ました」。おかあさんからこの話を聞いたドラゴンズのスカウト、柴田崎雄は即、板東を獲ると決めた。

 力の限りの戦いとなった。村椿(三菱重工)、板東(中日)、一歩も引かない。10回からナイターになったが0対0。延長18回、3時間38分の熱闘は0対0で引き分け、翌日再試合となった。球審相田暢一(早大投手、2014年殿堂入り)は「なんという試合ですか。選手たちの死に物ぐるいの意気がこたえて涙が出そうで胸が詰まる試合は初めて。ノドがかれて声も出なかった」(全国高等学校野球選手権大会史、朝日新聞社)。

 魚津ナインは午後9時過ぎに宿舎に戻り食事になったが村椿がいない。宮武が探しに行くと、部屋でユニホームを着たまま倒れるように眠っていた。「もう投げさせられない、投げさせてはいけない」。人の香りを残して甲子園を去ることになる。

 翌日、1年生森内正親をマウンドに。森内は健投したが1対3。決勝に進んだ徳島商業は山口県柳井高校に0対7。板東は6試合で奪三振83。優勝した柳井はオカネがなかった。負けたらすぐ帰校…と毎朝、宿舎竹園旅館(ホテル竹園芦屋)の帳場に「精算をお願いします」。純な思いを大会史に残した。

 2年生になった魚津の森内は41回大会の甲子園にやって来た(1対3平安)。あたたかく迎えられた。

=敬称略=(スポーツジャーナリスト)