【デスマッチ女王 工藤めぐみ伝説 邪道姫40年目の激白(17)】コンバット豊田が引退を決めたのは、大仁田厚さんの引退試合(1995年5月)の直前くらいでした。豊田とは何となく「一緒に入ったFMWだから、一緒に辞めれたらいいね」と話していて私の気持ちも「一緒に引退したい」でした。
自分の中で時代の移り変わりがあり、引退するには「今が一番いい時期ではないか」と。全日本女子プロレスの同期だった豊田は私にとって家族のようなもの。どちらかが「引退しようよ」と言い出したことはなく、お互いの気持ちが一致していました。試合を通して私が感じていたことと豊田が感じたことが同じだったと思うので、豊田の引退の話が出たとき、会社には「できれば一緒に」と伝えました。
会社からは…「バカなことを言わないでください」と軽くあしらわれました(笑い)。「同時に2人はあり得ない。せめて時期をずらしてほしい」との回答。なので、2人で話し合い「私が先に」と伝えましたが、会社との話し合いで最終的に豊田が先となりました。会社にもいろいろ事情があったのでしょう。
自分の中では全女を辞めた後に悔いが残ったので引退に関しては慎重になっていました。悔いなく、今だと思うときに辞めたいと考えていて。そのときが「今だ」と思いました。
新生FMWで私と豊田が抜けることに葛藤もありましたが、続けることが本当によいのか。新しい世代が新しいFMW女子をつくっていく方がよいのでは。そこは豊田と長い時間をかけて話し合いました。巡業中は宿泊先で朝まで話し、お互いが納得する形を見つけていきました。たとえ、最初に予定した引退の順序が変わったとしても、豊田と私の意志がきちんと入っていたので、気持ちを切り替えて、すべて納得しての引退でした。
96年8月23日、後楽園大会のリングで8か月後に引退すると正式発表しました。自分の中でも実感が湧いていない時もありましたが、リング上できちんと自分の言葉で「引退」の言葉を口にして、そこからは「ゴールに向けて突っ走るしかない」。そう思いました。
私の引退ロードに立ちはだかったのがLLPWの神取忍選手でした。神取戦では自分の気持ちを込めて戦いました。3戦すべてが違う形での試合で、12月11日の駒沢大会は通常ルール、97年1月5日のLLPW後楽園大会ではストリートファイトマッチ、3月14日の札幌大会ではノーロープ有刺鉄線デスマッチ。すごく充実していましたね。
それまでの団体対抗戦はFMW女子のため、FMW女子カラーでの試合でした。残りの引退ロードに関しては、自分のやりたい選手とやりたいスタイルで自分の望むものができたのではないか、と思っています。













