【昭和~平成スター列伝】72歳・藤波辰爾の初挑戦などアジアタッグが再注目を浴びているが、日本プロレスの祖・力道山の時代、アジアタッグはインターナショナルヘビー級王座と並ぶ看板王座だった。全日本プロレスで復活後は「ベテランのポジション」や「若手の登竜門」的存在となり、現在は自由な空気に満ちたベルトとなった。しかし力道山時代はメインを張る威厳に満ちた王座だった。
力道山は豊登とのコンビで通算4度王座を獲得して通算20回の防衛に成功。最初の戴冠時には12回連続防衛の記録を打ち立てており、1961年12月14日台東体育館で節目となる10度目の防衛に成功している。相手は頭突きを得意とする黒人の強豪リッキー・ワルドーとロッキー・ハミルトン組だった。
「ワルドーの頭突きを警戒して最初からヘッドロックで締め上げ、外されるとバックに回った。これに対しワルドーも空手を警戒しヒジ打ちとパンチを出した。力道山が空手を浴びせると、体を開きロープの外に逃げたのはうまい作戦。しかし結局は力道山の空手がワルドーの命取りとなった。エキサイトしたワルドーは場外から体重とロープを利して力道山にネックブリーカー(首折り弾)をかけ、反則を取られ貴重な1本を失った(13分42秒)。1本目は外国人組の反則にかき回されたが、2本目は先発をかって出た力道山はハミルトンを空手で痛めつけ、すぐに豊登に交代。その後に力道山はワルドーを場外に2度飛ばし、打撃でスタミナを奪った。しかも深追いせずにボディースラム(抱え投げ)で叩きつけて豊登にタッチ。2人がかりでロープに飛ばし、水平打ちでフォールを奪った(6分30秒)。このあたり2人の息はピッタリだった」(抜粋)
完璧な防衛劇だったが62年2月3日、日大講堂ではワルドーといとこのルター・レンジとのコンビが力道山組の連続防衛記録にストップをかけて新王者となり、会場が暴動寸前の大騒動となっている。それほどアジア王座は当時のファンにとっても重要なベルトだったのだ。
しかし力道山と豊登は12日後の同15日、日大講堂で王座を奪還。その後、6月4日大阪でキラー・オースチン、マイク・シャープ組に王座を奪われるも、7月1日大阪で王座を再度奪還。豊登の負傷もあり一度は王座返上となったが、63年5月6日札幌ではキラー・コワルスキー、フレッド・アトキンス組との決定戦を制し、4度目の戴冠を果たしている。
力道山と豊登はその後も防衛を続け、12月15日に力道山が不慮の死を遂げる直前の12月6日名古屋ではザ・デストロイヤー、オースチン組の挑戦を退けている。力道山はインターナショナルヘビー級とアジアタッグの2冠王のまま、帰らぬ人となった。アジアが最も輝いていた時代だった。 (敬称略)













