【昭和~平成スター列伝】“世界の16文”として一世を風靡した全日本プロレス創設者の故ジャイアント馬場さん(享年61)が1999年1月31日に亡くなってから、今年で27年となる。今回も様々なイベントが企画されているが、馬場が本当の意味で日本プロレス界の頂点に立ったのは、やはりプロレスの祖・力道山の遺産であるインターナショナルヘビー級王座を戴冠してからだろう。

 63年12月15日に力道山が急逝すると、翌年からは豊登がエースに君臨して社長にも就任。しかし同王座は空位のままとされた。日本プロレスはNWAの認可を取り同王座を復活させ、海外ですでに全メジャー王座に挑戦して“超大物”となっていた馬場に白羽の矢を立てた。馬場は65年6月から出場権をかけた争奪戦を経て、11月24日大阪で“生傷男”ディック・ザ・ブルーザーとの王座決定戦に臨んだ。本紙は1面で試合の詳細を報じている。

「日本の巨砲ジャイアント馬場がついに宿願のインターナショナル選手権を獲得した。日本代表の馬場とディック・ザ・ブルーザーのインターナショナル王座決定戦は24日、大阪府立体育会館に8000人の観衆を集めて行われた。試合はスタートからブルーザーのラフペースに馬場が巻き込まれ、真っ向からラフファイトで渡り合う大乱戦。リングの上下を往復してパンチ、空手チョップ、16文キックのすさまじい応酬となった。7分過ぎ、ブルーザーは馬場を場外に放り出すと記者席に叩きつけ、さらに電話線を引きちぎって馬場の首を絞め上げて引きずり回し、とうとう反則負け(17分59秒)。2本目も馬場を急所攻めのダーティーファイトから窒息絞めで攻めまくり、レフェリーを場外に叩きつけ大狂乱。相手のいないリングで反則負けとなった(5分31秒)。結局、馬場は反則2本を取って2―0と悪戦苦闘の勝利をものにし、晴れのインターナショナル選手権者となった。なお馬場は27日蔵前国技館でブルーザーと初防衛戦を行う」(抜粋)

馬場の16文キックがブルーザーのみぞおちをえぐる
馬場の16文キックがブルーザーのみぞおちをえぐる

 馬場には大苦闘の王座戴冠劇となったが「ブルーザーのあれだけのものすごい攻撃に耐えられたのはスタミナ。それが勝因じゃないか。スタミナだけには自信があった」と胸を張った。その言葉通り、27日の再戦では1対1からの両者リングアウトで初防衛に成功している。

 豊登はずさんな経営を理由に66年に日プロを除名されて東京プロレス旗揚げ(同年12月に崩壊)に向かった。名実ともに日プロは「馬場時代」を迎えることになる。馬場はその後、21回の防衛に成功して黄金時代を迎え、通算49回の防衛に成功し、72年に全日本プロレスを旗揚げする。王座は72年に封印されるが、81年に全日本で復活して、現在の3冠ヘビー級王座へと至っている。60年代のインター王座はまさに「馬場の象徴」であった。 (敬称略)