【プロレス蔵出し写真館】今から57年前の1968年(昭和43年)1月8日、日本プロレス、広島県営体育館でジャイアント馬場&アントニオ猪木の〝BI砲〟に、クラッシャー・リソワスキー&ビル・ミラー組が挑戦するインタータッグ選手権が行われ…るはずだった。

 猪木が〝大事な〟タイトルマッチをすっぽかすという前代未聞の〝事件〟が発生した。馬場は「広島に来て、話を聞きビックリした」と語った。

 リング上で馬場が2本のベルトをコミッショナーに返上。観客には「やむを得ざる事情とはいえ、このような事態になったことをファンの皆様に深くおわび申し上げます」という、猪木の電報が披露された。

 急きょ、馬場はかつてインタータッグ王者としてコンビを組んでいた吉村道明を指名。クラッシャー&ミラー組と王座決定戦に臨んだものの、息が合わず1―1から両軍リングアウトで引き分けに終わった。王座は再びコミッショナー預かりとなったのだ。
 
 猪木は前日7日夜、大阪府立体育会館での試合終了後、休養のため帰京していた。8日、広島に向け空路出発して大阪まで到着したが、おりからの雪と悪天候のため、広島へ飛ぶ便が全部欠航。

 列車でも試合に間に合わないことがわかり、猪木は伊丹空港から広島県営体育館に連絡し、「やむをえず欠場」とタイトル返上を申し入れた。

 猪木は「すべて私の責任。馬場さん、ファンの皆さんにはなんともお詫びの申しようもない。無冠になったわけだが第一歩から出直し、ファンのためにも死に物狂いで頑張る」と取材に答えた。
 
 翌9日は愛媛・松山での興行。馬場ら一行は広島市営港から水中翼船で松山の高浜港へ移動し、宿舎「こがね荘」に到着した。玄関先に猪木が神妙な表情で立っていた。

 猪木はこの日、大阪・伊丹空港10時30分発の一番機で松山入りしていた。「どんな事情があろうと僕は重大なミスを犯した。本当に申し訳ない」。猪木はひたすら頭を下げ、謝意を表していた。

 さて、猪木が大阪から帰京した理由は後年、明らかにされた。

「猪木戦記」を上梓したプロレスライターの流智美さんは、巡業に同行した東スポの桜井康雄記者の話として「猪木が試合前に(野毛の自宅に)電話したときに、(事実婚の)ダイアナさんが、情緒不安定でよからぬことを口走ったそうです。『私がどうなってもいいのね!?』って。一種のヒステリー。ダイアナさんは野毛に住み始めて間もないころで、不安だったとは思いますが…」と明かす。

猪木の試合を観戦するダイアナさん(写真中央、1967年9月、大田区体育館)
猪木の試合を観戦するダイアナさん(写真中央、1967年9月、大田区体育館)

 インタータッグ王座は2月3日に大田区体育館で、馬場と〝名誉挽回〟を期す猪木がコンビを組みクラッシャー&ミラー組と王座決定戦を行った。当然のごとく猪木は猛ハッスル(写真)。1―1からミラーをコブラツイストでギブアップさせ、王座に返り咲いた。

 ところで、新日本プロレスを設立した猪木は、巡業中の休日には、必ず帰京する姿が目撃された。

 某中堅レスラーは「休みがあると地方からでも帰ってた。朝一番とか、お昼の飛行機で。新幹線とか、夜行(列車)で帰るときもあった。控室である選手が『社長、また明日も帰るんですか?』って聞いたら、猪木さんは『帰らないと不安でしょうがないよ、こっちは』って」。

 71年(昭和46年)に女優の倍賞美津子さんと結婚した猪木は、美津子さんが心配で帰京していたという。

「大女優でしたからね。美津子さん、きれいだったし」(前出のレスラー)

 周りから羨望される美女を伴侶にすると、心配が尽きないようだ(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る