1日に心不全で死去した〝燃える闘魂〟アントニオ猪木さん(享年79)が最も光り輝いていたのは、新日本プロレスの「黄金時代」と呼ばれる1980年代ではないか。当時をよく知る元猪木番記者が〝昭和〟の燃える闘魂を振り返る。第1回では、猪木さんが「一番好きだった人」を紹介――。

「結局、猪木さんは倍賞さんが好きなんだよ。ずーっとね」

 猪木さんの4人目の結婚相手・田鶴子さんが亡くなったときのこと。冒頭の言葉を複数のプロレス関係者から聞いた。そして実は、私もそう思っていた。「倍賞さん」とは、言うまでもなく女優の倍賞美津子さん。30年以上前に別れた猪木さんの2番目の妻だ。

 プロレス担当になりたての1986年の春だったか。代官山で猪木さん、作家の村松友視さんの酒席に当時のデスクとともに同席させてもらったことがある。猪木さんの自宅の近くということで、それなら奥さまも呼ぼうとなった。

 当時2人の関係は「かなり危うい」と言われていたはずだ。しかし、倍賞さんはすぐにやってきた。そして「アントン、アントン」とにこやかに、そしてちょっと甘えるように体を寄せて話しかける。その時の猪木さんの顔は今もまぶたに浮かぶ。照れながらも、どこか誇らしげ。本当にうれしそうな顔だった。

 その後、プロレスの巡業先で猪木さんにこんなことを言われたこともあった。「女房が聴いてる音楽とか、見てる芝居や映画はホント、一流のものばっかりなんだ。本物がわかるんだろうね。今度女房に聞いて教えてやるから、そっち(私のこと)も聴いてみな」。ベタぼめというか、ベタぼれというか…。

 その分、離婚した時の落ち込みようといったらなかった。離婚届を提出した翌日に控室でドン荒川(故人)を相手に「昨日離婚届を出してきたよ。悔しい」と猪木さんは泣き出したという。「社長(当時)、泣かないでくださいよ」とレスラーたちは猪木さんを必死に慰めたそうだ。「悔しい」というのは、離婚という結果になったことについてで、猪木さんは人目もはばからず落涙するほど、離婚したくなかったわけだ。

 離婚して1年ほどたったくらいにニューヨーク郊外のビンス・マクマホン・ジュニアの自宅を訪ねた際のやりとりもよく覚えている。「奥さまは元気ですか」と尋ねたビンスに、猪木さんは「別れた」と、ひと言。その顔は、まさに〝泣き笑い〟だった。猪木さんの心の奥が見えたような気がした。

 それでも倍賞さんの悪口を言うどころか「いい女だった」「感謝している」などと、いろいろなところで褒めちぎっていた。だから、誰と結婚しようが本当に好きなのは倍賞美津子…これを否定する関係者はいないだろう。関係者の一人はこうも言っていた。

「IGFの時だったかなぁ。猪木さん、一時ロサンゼルスに住んでたでしょ。あれは倍賞さんが当時、病気の治療か何かでロスにいたからなんですよ。そばにいたかったんでしょう」

 ジョッキのビールを一瞬で飲み干したときのドヤ顔、ハンドパワーで何メートルか離れたところに座ったスカートの女性のひざを開かせてニッタリ笑った顔、前田日明に「あんたが先に行って待っとけっていうから、UWFに行ったんじゃないか!」と詰め寄られバツが悪そうに振り向いた顔…。いろいろな猪木さんの顔を知っているが、代官山で倍賞さんと一緒にいた時のうれしそうな顔が実は一番印象に残っている。(元プロレス担当・吉武保則)