1日に心不全で死去したアントニオ猪木さん(享年79)に「幸運」をもたらしたのが、元妻の女優・倍賞美津子さんだ。猪木さんの側近だった元新日本プロレス専務取締役営業本部長で、〝過激な仕掛け人〟と呼ばれた新間寿氏(87)が振り返る「闘魂備忘録」。後編では猪木さんと倍賞さんが遭遇した「ドライブデート騒動」と「パキスタン逮捕未遂事件」について語る。
1971年11月2日、猪木さんは東京・京王プラザホテルで倍賞さんと結婚式を挙げた。出会いは「みっちゃん、みっちゃん」と倍賞さんをかわいがっていた猪木さんの先輩、豊登(故人)の紹介だった。当時の猪木さんがいかに倍賞さんに夢中になっていたか分かるエピソードがある。ある日、猪木さんが車をレンタルし、意気揚々と横浜へデートに出掛けた時のこと。ところが「全然スピードが出ない、どうしようもない車だ!」と怒って帰ってきたという。
新間氏 おかしいなと思って運転手が返却しにいこうとしたら、サイドブレーキがきつく入ってガタガタになっていた。「このまま走っていたんですか?」と聞いたら、「そうだ」って車を蹴っ飛ばすんだよ。「サイドブレーキを外さないで走っていたんじゃないですか?」と指摘されたら「ええっ、そうか!」って。サイドブレーキをかけて横浜へドライブしたのは、この世界でアントニオ猪木だけですよ。
このころの猪木さんは波瀾万丈だった。結婚式直後、日本プロレスから〝クーデター〟を疑われて除名処分に。それでも猪木さんはめげなかった。翌72年3月6日に新日本プロレスを旗揚げしたのだ。東京・野毛の自宅は道場に改築し、猪木さんと六本木の金谷ホテルマンションで新婚生活を送った。だが、旗揚げを控えたメンバーは山本小鉄(故人)、柴田勝久(故人)、藤波辰巳(現辰爾)らだけで心もとない。そこで白羽の矢を立てたのが、70年2月に引退していた豊登だった。
新間氏 「新間、豊さんカムバックできないか?」と猪木さんが言うので、金谷ホテルマンションに連れて行った。だけど「わしはもうやりたくない」の一転張り。そうしたら倍賞さんが「私のためにもアントンを応援して。もう一度、リング上の豊登を見せて」って言ってくれてね。倍賞さんの熱意ですよ、新日本プロレスに豊登さんが出たのは。豊さんが最初に参加してくれなかったら新日本プロレスは客が入らなかった。
実は当時、新間氏が豊登の面倒を見ていたが、「アパートのお金、どこから出ているか知ってますか? 猪木さんですよ」と一芝居打ったことも奏功した。倍賞さんはリング上の猪木さんも支え続けた。76年6月26日のモハメド・アリ戦前には、会見でアリがまくし立て、猪木さんがひるんだことがあった。そこでスクッと立ち上がったのが倍賞さんだ。「あいつは誰だ?」と聞いたアリが「猪木のワイフだ」と説明されると、驚いていたという。新間氏は「さすが女優だな」と感服したのを覚えている。その半年後の12月12日、猪木さんはパキスタンのカラチで現地の英雄アクラム・ペールワンと対戦した。
新間氏 ペールワンの腕を折ったぞとなった時、(5万人の観衆で埋まったスタジアムで)暴動が起こりそうになった。すぐに倍賞さんに「奥さん、控室に行きましょう」と言ったら、「私はいいから、アントンをお願いね!」と言ったんですよ。そんなこと言う人いないですよ。
ペールワン戦の翌日、猪木さん一行はインダス文明の都市遺跡「モヘンジョダロ」を訪れた。ところが、ホテルに戻った猪木さんがとんでもないことを言い出す。模様が刻まれた石を毛布に包み、日本に持ち帰ると言って譲らない。もちろん、貴重な遺跡の一部。新間氏は「社長、日本の恥をさらさないでください」とたしなめ、倍賞さんも「アントン、本当にやめて」と必死に説得。猪木さんも渋々あきらめたという。
新間氏 あそこで倍賞さんと止めなかったら「アントニオ猪木税関で逮捕」だったよ。倍賞美津子さんがいたその時代こそ、昭和の新日本プロレスの最盛期だった。視聴率、入場者数、そして異種格闘技戦。あの人と一緒になった時、猪木さんも最高の人生だった。私自身がやったというわけではなく、倍賞さんが運を持ってきてくれた。アントニオ猪木、新日本プロレスに幸福をもたらしてくれた女神でした。 (終わり)











