【プロレス蔵出し写真館】3月7日に、昨年10月1日に逝去した〝燃える闘魂〟アントニオ猪木のお別れ会が両国国技館で開催される。両国で数々のビッグイベントを戦った猪木だけに、感慨深いものがある。

 新日本プロレスが両国を初使用した37年前の1985年(昭和60年)4月18日、メインイベントは猪木と〝超獣〟ブルーザー・ブロディの初対決だった。

 ブロディは、この年の3月14日、名古屋で行われた全日本プロレスのシリーズ最終戦で「国際血盟軍」のラッシャー木村、鶴見五郎とタッグを組みジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎組とセミの6人タッグで対戦。試合開始からチームワークがかみ合わず、コーナーを離れエプロン中央で待機する場面が目立った。そして9分過ぎ、なにを思ったか花道を引き揚げ試合を放棄した。すでに次期シリーズの4月19日から一週間、特別参加することが発表されており、以後の動向が注目された。

 一旦帰国したブロディはすぐさま極秘裏に来日。3月21日、新日本の後楽園ホールを急襲した。館内が暗転し、スポットライトがスーツ姿を捉えるとブロディコールの大合唱。ベートーベンの交響曲第5番「運命」が流れ、猪木が待つリングへ上がった。そして5分間の視殺戦。このド派手な演出に館内は興奮のるつぼ。ブロディが電撃移籍した瞬間だ。

 翌日、京王プラザホテルで行われた会見でブロディは、「プロレスラーに一番大切なのは、バーニングスピリット(燃える闘志)。猪木の目にはそれがあった」と語り、約20分の会見を終えると、機上の人となった。

左腕にテーピング、手首にタオルを巻いてブロディと対峙する猪木(85年4月、両国国技館)
左腕にテーピング、手首にタオルを巻いてブロディと対峙する猪木(85年4月、両国国技館)

 そして、迎えた両国大会。ガウンを羽織らない猪木が入場。なぜか左腕にテーピングがされていて、いつもは首にかけている赤いタオルを手首に巻いている。後から、試合前の控室でブロディに襲われたことが判明する(テレビ朝日はこの襲撃シーンを撮影していて、視聴者には理由がわかる番組構成)。

 2人はこの年だけで6度もシングル戦を行い、この中には海外(ハワイ・ホノルル)での試合もある。ハワイでは、ブロディを絶景スポットで有名なタンタラスの丘へ連れて行き特写(写真)。ブロディは11月の「IWGPタッグリーグ戦」にジミー・スヌーカと参加することに触れ、「優勝するのは俺たちしかいない」と断言した。ところが、最終戦(=優勝戦)をボイコットするという事件を引き起こし、新日本を永久追放となった。

 新日本と再び関わるのは、翌86年8月9日のハワイでの興行。猪木、藤波辰巳(現・辰爾)以下、新日勢が出場したのだが、ここにブロディも参戦した。

 そして、この大会を取材した本紙記者は恐ろしい光景を目の当たりにした。「週刊F紙のF記者がもの凄い勢いで走って来たんですよ。そして、うしろをブロディが追い駆けて来ました。フル〇ンで。そう、全裸でした。F記者は、ブロディが新日本の杉田(豊久通訳)さんと話しているのを目撃して写真を撮り、それに気づいたブロディが怒って、追いかけたようです。198センチ、135キロの巨体を誇ったわりにおそろしく足が速かった。F記者が一度後ろを振り返ったので、追いつかれてました。その後のことは…」。当時を振り返り、目を伏せた。

猪木に詰め寄るブロディ(86年8月、ハワイ)
猪木に詰め寄るブロディ(86年8月、ハワイ)

 翌日、ビーチで静養している猪木にブロディが詰め寄るという出来事があり、なにやら話し込んでいたが小競り合いに発展した。「あわててカメラのシャッターを切りました。山本(小鉄)さんの肩ごしに…。あのときのブロディは怖かったですよ」(前出記者)。

 その後、ブロディは新日本への来日が決まり、9月16日、大阪城ホールで猪木と60分フルタイムの激闘を展開。

 新日本の関係者は無事試合が行われたことに安堵した。というのも、ブロディは試合直前までキャンセルをちらつかせたという。試合前、山本小鉄が立会人となって猪木とブロディを握手させ、フェアプレーを誓うという写真撮影の場が設けられたのも異例だった。
 
 通算7度戦ったシングルマッチの戦績は、猪木の1勝(反則)2敗(ともに反則)4分け(3両者リングアウト、1時間切れ)。ブロディは、同年暮れの「ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦」に参戦が発表されたものの来日せず。特別試合で予定され、ファンが期待したアンドレ・ザ・ジャイアント戦、前田日明戦は実現しなかった。結局、ブロディは翌87年に全日本へUターンした。

 ブロディは、猪木がもっとも〝手を焼いた〟外国人レスラーだった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る