【中島輝士 怪物テルシー物語(19)】高校からプロには行かず、私は1981年から社会人野球のプリンスホテルに投手として入団しました。ただ、順風満帆の野球人生というわけにはいきませんでした。プロ野球からのドラフト解禁年となる3年目に右肩鎖関節下の静脈に血行障害を発症し、4か月の療養。手術をしても2年間は投球不能と診断を受けました。
プロからの誘いをあえて断って社会人に進んだ。それなのにここで故障をしてしまっては、プロどころか野球人生そのものが終わってしまいます。そもそもプロではなく社会人への道を選んだ理由には、母の希望もありました。高校2年の秋に父を亡くしていたため、安定した道をと促されたわけです。
決してそれで母を恨むなんてことはありえませんでしたが、私としては母に心配をかけてしまっているんじゃないかと心が痛みました。80年の春のセンバツで優勝投手になった同級生、高知商の中西清起は社会人の同じ地区のリッカーで主投手としてしっかり投げていました。83年の秋にはドラフトで阪神に1位指名され、プロの道へと進んでいきました。それに比べれば自分はまだまだだ…。
野球を続けられるかどうかの瀬戸際だった僕を救ってくれたのは社会人時代の恩師でした。入部した当時の助監督である石山建一さんいわく「中島を残してやってほしい」と野球部に掛け合ってくれたそうです。そんなタイミングで野球部監督に就任していた稲葉誠治さんに相談したところ「1年だけ野手をやってみろ」と言われたんですね。石山さん、稲葉さんという2人の恩師が私の野球人としての道を守ってくれたんです。
石山さんは私が1年目だった81年途中に、都市対抗予選敗退の責任を取って辞任されました。投手育成の手腕に定評のあった稲葉さんの下、プリンスホテルは83年から2年連続で東京地区第1代表で都市対抗野球に出場しました。
その稲葉さんの助言もあって84年からは、野手転向を目指すことになります。当時の社会人野球はまだDH制ではなく、投手が打席に立っていました。私は登板した試合の打席では結構、打っていた印象もあったと思います。投手出身の稲葉監督ですから、投手陣の様子をよく見てくれていたんだと思います。
当時の稲葉監督は66歳でした。当時の66歳ですから、周りには「じっちゃん」と言われていましたね。慶大の投手として東京六大学リーグの優勝を2度、経験しています。56年には慶大監督に就任し、同年秋にリーグ優勝。60年から社会人の日通浦和の監督を務め、64年の都市対抗で優勝です。そういった実績を認められてプリンスホテルに招へいされてきたわけです。チームの編成面と采配に関しては助監督となっていた石山さんに任せていたイメージですね。
社会人時代は2人の恩師に見守られ、野手・中島輝士が誕生することになりました。












