【中島輝士 怪物テルシー物語(18)】1981年春から社会人となりプリンスホテル野球部の一員になりました。1年目の81年、2年目の82年は都市対抗野球大会への出場を逃し、公式戦があったはずの7月から8月には社業に専念する期間もありました。プリンスホテルの制服を着用しての仕事です。
私の所属は品川駅前にある新高輪プリンスホテルでした。同期の藤井康雄(のちに阪急、オリックス)と一緒にルームボーイとなり部屋の清掃やベッドメーク。ある時は宴会係になってテーブルのセッティングや食器拭きにいそしむというホテルマンとしての生活です。しかし、仕事に取り掛かろうとすると担当の皆さんに「自分がやるから」と制されてしまうんです。
普段は野球ばかりしていますから、仕事が遅いから相手をしてもらえないのかな。そんなふうにも思いましたが違いました。テーブルを動かそうとすれば「指を挟んでけがをしてはいけないから見ていてくれ」と言われる。グラスを拭こうとすれば「指を切ったら大変だ」と言って止められました。
つまり、われわれ野球部は野球をすることが最優先なんだからと、守ってくれていたんです。都市対抗予選で負けてしまい、何をやってんだと、意地悪をされているわけでもない。冷たくされているわけでもなかったんですね。大事な野球部のメンバーとして一目置いてくれて、優しくしてくれていたんです。それは、過保護なぐらいでした。
そして迎えた3年目です。投手として頭角を現そうと意気込んだ私でしたが、右肩の故障を発症してしまうんです。83年、チームは3年ぶりに都市対抗野球大会に出場を果たしますが、私はけがで離脱です。肩鎖関節下の静脈に血行障害を発症し4か月の療養ということになりました。
高校出身の選手は3年間、社会人野球でプレーすればプロのドラフトを受けることができる解禁年です。そんな大事な時期に…。とはいえ、当時の私は投手としてそこまで目立つような活躍もできていませんでした。不慮の故障とはいえ、投げられない投手がチームに残ることができるのかという、本当の意味での人生のターニングポイントに立たされました。
高校からプロに進むのか、社会人野球に進むのかというのは選択肢であって野球をすることには何ら変わりはありません。しかし、この右肩の故障という事実は野球生命の危機を意味します。投手として野球部に入部してきて、3年目に右肩を故障して投げられないわけです。当時の自分を振り返ると、精神的なショックたるや相当なものでした。
長野の病院に4か月入院し、セ・パ両リーグでチームドクターを務めた整形外科医・吉松俊一先生の治療を受けました。名医をもってしても、手術をしても2年間は投球不能という診断を下されました。
8球団の誘いを断り社会人野球を選んだ。それなのに故障してしまった。あの時、プロに行っていれば…そんな心にも襲われましたね。












