【中島輝士 怪物テルシー物語(17)】1981年の3月に福岡・柳川高校を卒業した私は、社会人野球のプリンスホテル野球部を次の進路に決めました。プリンスホテル野球部の結成は78年。翌年の79年から社会人野球協会(現在の日本野球連盟)に加盟し、創部2年目の80年には都市対抗野球に初出場という華々しい活動歴を持つ野球部です。
高校生の夏が甲子園なら、社会人野球の夏は東京ドーム。都市対抗野球大会への出場、全国優勝を目指しプリンスホテル野球部は活動していました。都市対抗は1927年に始まっていますから、もうすぐ100年という歴史の長い大会なんだなと感じますね。
私は80年ドラフトの際にはプロ8球団からの誘いをいただきました。ですが、社会人野球へ進むことを表明し指名回避を求めました。ドラフトでの指名もなく、卒業後の81年4月からプリンスホテルに入社し野球部の一員となりました。プリンスホテル野球部創部前の構想段階からチームに関わり、監督を務めた石山建一さんは私の恩師に当たります。プロ以上のアマチュアチームをつくるというコンセプトで全国から有力選手を次々に獲得していた時期ですね。
当時の西武グループの総帥で、プリンスホテルの社長でもあった堤義明さん肝いりの野球部創設プロジェクトでしたからね。堤さんは早大出身であり、石山さんは静岡高から甲子園出場も経験し早大でもプレー。卒業後は早大野球部の監督も務めていたというゴリゴリの早稲田ラインで、一大事業は進められていきました。
堤さんはもともとスポーツに造詣があり、経営する国土計画、西武鉄道にそれぞれアイスホッケーチームをつくり、国内トップクラスのチームに育てていました。スキーやスピードスケートなど、ウインタースポーツの発展にも寄与されています。プロ野球にも興味を持たれていて、プリンスホテル野球部の創部と同時にクラウンライターから、後の西武ライオンズの買収にも動いていました。
私が入部した頃のプリンスホテル野球部には高校出身では藤井康雄内野手(泉州~86年阪急ドラフト4位)、高山郁夫投手(秋田商~84年西武ドラフト3位)、川村一明投手(松商学園~83年西武ドラフト4位)らが同期で3期生として名門の一員となりました。私はこの時点では投手として入部しています。
入社してからは環境の変化に驚きました。ものすごく過保護と言っていいほどの好待遇なんです。食事はプリンスホテルのシェフが作ってくれますし、試合用のユニホームから練習着まで全てクリーニングに出してもらえる。寮には洗濯機もたくさんあるのに、シャツから下着までほとんど全部クリーニングでしたね。
しかし私が入部してからの81年、82年は都市対抗に出場できなかったんですよ。これはこれで、期待されながらなかなかに立場がないんです。都市対抗に出られないとなると、7月から8月に公式戦がなくなりますから、ホテル業に専念しないといけません。












