【中島輝士 怪物テルシー物語(1)】福岡・柳川高ではエースとして活躍し、その長身から九州の怪物「テルシー」の愛称で人気を博し甲子園を席巻。プロ入りせず、あえて進んだ社会人野球では故障で投手から野手転向を余儀なくされるも、ソウル五輪に4番打者として出場し銀メダル獲得に貢献した。1988年ドラフトで日本ハムから1位指名を受けプロ入りすると、新人開幕戦サヨナラ弾の鮮烈デビュー。アマ、プロ球界で輝きを放った中島輝士氏が本紙で、その半生を語る。
東スポ読者の皆さん、新連載を担当させていただきます中島輝士です。この度は貴重な機会をいただきましてありがとうございます。高校球児だった時代からマスコミの皆さんには取り上げてもらい、社会人野球、NPB、台湾プロ野球、韓国プロ野球、独立リーグ、大学野球と野球にご縁をいただき続けてきた半生でした。私の経験をお伝えすることで、野球ファンの皆さんに楽しんでいただければ幸いです。
私が野球に触れたのはもう、物心つく前のことです。父が佐賀商高の投手だったということもあり3歳の頃から野球ボールで遊んでいました。小学生の頃は父と自宅近所の神社でキャッチボールをしてもらいました。それが私の原点ですね。
漫画「巨人の星」の主人公・星飛雄馬と星一徹の親子みたいな、そこまで厳しくはなかったですけど、30分から40分くらいかな。父は一般の会社員でしたから午後5時か6時には帰ってきてたかな。仕事から帰ったらすぐに、神社の境内に移動して来る日も来る日もキャッチボールをしたことは忘れません。日が暮れるまで一緒に遊んで野球やって、親父との思い出は一生自分の宝物です。
7年くらい前かな、たまたま実家に帰った時、日暮れ時にいいねと思ってスマホのカメラで写真を撮ったんです。ちょうど、いつも僕がキャッチボールをやっていた場所からね。すると、不思議なことにレンズに光が反射してボールのようなものが写り込んだんです。ゾゾっとしてね。光の玉が写ったその写真は大きく伸ばして、実家に飾ってあります。
両親はそんなに身長は大きくはなかったんですが、祖父がその時代では大きい人だったので隔世遺伝したのでしょう。私は小学校高学年の頃には身長170センチを超えて、中学の頃には180センチ超という大柄な子供でした。決して品行方正なタイプではなく、ヤンチャでお山の大将でしたね。母はいつも、私がよその子をいじめてないかと心配していたといいます。
佐賀県の地元は神埼郡三田川町という地域で野球が盛んでした。吉野ヶ里遺跡が発掘され有名になった経緯もあり、現在は三田川町から吉野ヶ里町に町名が変わりましたが、私にとっては今でも三田川町という呼び方に親しみを持っています。三田川中学では学校の軟式野球部に入部して3年生の大会では県で準優勝することができました。確か3番・投手だったかな。私が投げて私が打って勝つチームでしたし、体が大きかったので目立ったでしょうね。
中学には県内外、あるいは東京の大学までが私をスカウトするため現地に来てくれました。












