【中島輝士 怪物テルシー物語(2)】中学時代から背が高く目立つ存在だったため、佐賀県内外の高校や大学からスカウトが私を視察に来てくれました。数えたことはないですけど、スカウトはかなりの数があったと思います。本当に数えられないほどに。覚えているのは地元の佐賀商、佐賀工、福岡の九産大付属、柳川、神奈川の東海大相模、さらに亜細亜大といろいろありました。

 東海大相模に関しては実は監督の原貢さんが学校まで来てくれたんですよ。貢さんは野球ファンならご存じの方が多いと思いますが、1965年に福岡・三池工を夏の甲子園に導き全国優勝を成し遂げた名将です。さらに分かりやすく言えば、巨人の4番、監督として活躍された原辰徳さんのお父さんです。

 当時は高校3年生だった原辰徳さんと親子で一緒に私を見に来てくれましたよ。ちょうど招待試合で佐賀県に来ていたタイミングでね、僕は中2の頃でした。実は原貢さんは私の中学の先輩にあたるんです。出身は吉野ヶ里町なんです。今でもご実家の原土木が吉野ヶ里にありますよ。貢さんは次男でした。

 ただ、その頃にはもう福岡の柳川高に進学することを決めていたんですね。お断りする形にはなってしまいました。ただ、貢さんは辰徳さんが東海大に進学すると、そのまま大学の野球部監督に就任してしまいましたから。行っていたとしても毎日、指導を受けられなかったと思いますから、私が東海大相模を選ばなかった選択肢は正しかったのかもしれません。

 早々に大学からスカウトしていただいたこともありがたかったですが、まずは高校に行かなくてはいけませんから。当時の僕は品行方正な方ではありませんでしたから、寮に入ってもまれてこいということで母が希望して柳川でお世話になることに決めました。

 それにしても、高校に行ってもヤンチャ坊主、お山の大将のままでした。やりたい放題で怖いもの知らず。なんの苦労も知らずに好き勝手やって、それでいて反対にチヤホヤされてもてはやされて。今から考えれば、あまりにも若すぎたというか、別にテングになっていたわけじゃないんだけど、周りもそういうふうな目で見ていたしね。その環境に自分も甘えていたというのはあるかもしれないですね。

 両親は自由に育ててくれたし、母は今でも健在で私は自由にさせてもらっている。姉が母の世話をしてくれていて、今でも甘えているんだけどね。

 柳川での寮生活も最初はどうかなと思っていましたけど、先輩も後輩も同級生も今でもつながりがあるんだから宝物ですね。当時は長く感じたかもしれないですが、大人になって振り返れば高校野球の3年間なんてあっという間です。あの中学、高校の6年間という青年期は大事な時間だったなと今になって思いますね。

 高校に入っても私の野球人生は順調でした。1年生の夏にはベンチに入っていました。新チームになった1年の秋にはエースになって、ほぼほぼ全ての試合で投げさせてもらいました。

 連日、150球も200球も投げてましたね。今だったら投げすぎだと言われるのかもしれないですけど、投げておかないと、練習しておかないと不安なんですね。本当に練習はよくやったと思いますよ。その成果はしっかり結果となって表れることになります。