【中島輝士 怪物テルシー物語(3)】地元の佐賀県を離れ福岡県の強豪・柳川高に進学。野球部では1年夏からベンチ入りし、秋にはエースとしてほぼ全ての試合で投げさせてもらいました。当時は毎日、150球から200球という投げ込みを行い練習に明け暮れていました。名将とうたわれた福田精一監督の下でカーブの投げ方を教わって、それをうまくコントロールできるようになってから投球の幅が広がりました。カーブをうまく操ることができるようになると、直球も生きてくる。それがうまくはまりましたね。
1978年、1年秋の福岡県大会は北部、南部に分かれていて柳川高は南部に属していました。その南部の準決勝で私は大牟田高を相手に4―0で先発完封勝利。続く決勝では八女工高を相手に1―0の完封勝利で優勝することができました。
その勢いのまま11月3日から6日にわたって開催された第9回明治神宮野球大会・高校の部でも素晴らしい結果を残すことができました。初戦は東京代表の桜美林高と対決。3回に1点を先制されますが、6回に1学年先輩の畠中透(とおる)さんが逆転2ランを打ってくれて、そのまま2―1で勝利しました。この試合でも私は先発完投勝利を挙げています。ちなみに逆転決勝アーチを放った先輩の畠中さんは79年のドラフト外でヤクルトに入団したプロ野球選手です。
そして神宮大会準決勝は東北・宮城代表の東北高との対戦です。私は先発し1回に1点を失うも、3回には味方打線が3点を取ってくれて逆転。しかし、8回裏に3点を失い3―4と再びビハインドの展開になりましたが、風は柳川に吹いていました。9回に遊ゴロ失策をきっかけに、私が2ランを放ち再逆転に成功。この試合は自ら逆転2ランを記録し5―4で完投勝利という最高のゲーム展開でした。
当時の私は1年生の投手であり打順も7番か8番に入っていました。だから、相手投手からはさほど警戒をされていなかったんでしょう。ちなみにこの試合で8回に失策を犯し柳川を窮地に陥れてしまった遊撃手は御所豊治さんという人物です。なぜ、名前を出させてもらったかといいますと実は現在、わが母校・柳川の野球部監督を務めている方なんですよ。本当に人のご縁とは不思議なものです。
1年秋の神宮大会では何か、見えない追い風のようなものを感じていましたね。逆転、逆転の展開で勝利して決勝進出。近畿・兵庫県代表の市神港との決勝は6回までに11点を奪う展開になったため、私は途中で降板し先輩で捕手だった石丸さんとの継投になりました。最終的には12―2というスコアで、明治神宮大会において柳川は初出場初優勝という最高の結果を残すことができました。
この頃から私の存在が全国的に知られるようになっていきました。当時の私は神宮大会で優勝した事実をすごいことだとは思っていましたが、甲子園で優勝しなければ話にならないとも思っていて、神宮での優勝の重みを理解できていなかったと思います。
ただ、実はもう私はこの神宮大会でケガをしてしまい最後の試合は投げられないような状態でもありました。そういった事情もあり決勝戦はリリーフに助けてもらっていました。この事実が、直後に行われる九州大会での痛い結果に直結してしまうんです。












