【中島輝士 怪物テルシー物語(4)】 高校1年秋、私は順風満帆な野球人生を送っていました。エースとしてほぼ全試合に投げさせてもらい、秋の福岡県南部大会では優勝。その後、11月3日から6日で行われた明治神宮大会でも優勝という最高の結果に恵まれました。

 続いて11月半ばには九州大会です。柳川高は神宮大会で優勝もしていますし、九州大会で1つでも勝利していれば、次の春に開催されるセンバツで甲子園出場校に選ばれるのが順当だったと思います。しかし、現実はそうはなりませんでした。

 神宮大会の終盤にケガをしてしまったことは言い訳にはできないのですが、自分の投球をできる状況ではありませんでした。神宮大会優勝よりも、九州大会で優勝しなきゃという気持ちが大きかったんですが、悔しいですが思い通りにはいきませんでした。

 九州大会1回戦は鹿児島実業高と対戦しました。結果は8回コールド、1―8の大敗です。私は先発登板し最後まで投げはしましたが3回に4失点し、その後も小刻みに追加点を許し計8失点の結果です。痛くて投げられないもどかしさや悔しさ、コールド負けしてしまって甲子園への道も絶たれるという、何とも受け入れ難い結果に若き日の心が痛みました。

 対戦した鹿児島実業高のエースは1学年先輩で後に中日の投手となる鹿島忠さんでした。高校卒業後は鹿児島鉄道管理局を経て1982年ドラフト1位で中日に入団。主に中継ぎで405試合に登板されたタフな右腕です。

 普通は神宮大会で優勝ならノー文句でセンバツだろう。そう思われていたでしょうけど現実は厳しいものでした。

 ただ、甲子園は逃しましたが、神宮大会で優勝できたからこそ実現したこともありました。年末の12月28日から1月3日か4日くらいの期間だったと思います。我々は台湾へ遠征に行く機会を与えてもらいました。しかし、現地での結果は5戦5敗でした。つまり全敗ですね。

 で、現地で対戦したのが高校生だった1学年先輩の郭泰源投手です。その後、オリエンタル・エクスプレスの異名を取りMLBからもNPBからも争奪戦となった快速球右腕です。日本のファンの皆さんは85年から加入した西武での活躍が印象に残っているでしょうね。泰源さんは高校卒業後は台湾企業の合作金庫に就職し、私も社会人野球の選手として対戦しています。なんと、高校時代も社会人時代も私は郭泰源さんから打っているんですね。この辺りのお話は改めてさせていただきますね。

 さらに話が飛ぶと、私が社会人時代の台湾球界には呂明賜もいましたね。国際大会で私とはライバル関係でした。ソウル五輪の前に巨人と契約してデビュー17試合で打率3割7分9厘、10本塁打というとてつもない成績で一躍スターになった右の大砲です。ま、こちらも後々、語らせていただきますね。

 あの時代でいえば、私としては春のセンバツに出場できなかったことが心残りではありました。期待してもらっていたのに、結果を残せなかった。ただ、高校1年の秋に神宮大会で優勝できたことで台湾遠征のチャンスをもらった。その事実が功を奏して、台湾球界の選手たちと高校時代から交流ができたことも事実です。こういったさまざまなご縁はいろんな形で後の私の人生に生きていくことになります。