【中島輝士 怪物テルシー物語(13)】母校の柳川高校は先輩たちの代から私が在学した時代も含め、福岡県内で有数の野球強豪校でした。甲子園出場という事実もあり志望者も多く当時は1学年800人ほど、全校では2400人もの生徒が在籍するマンモス校でした。
野球部には九州の有力選手がスカウトされ、入部してきます。一方で一般受験のメンバーも柳川野球部を目指して加入してくるという事実もありました。総数でいえば野球部の1年生が130人くらいいる状況です。ほぼ、1年生は球拾いばかりで、野球なんてやらせてもらえるはずもありません。
そりゃ、ダッシュ100本なんて普通にやるんだもの。野球の名門校に興味本位で入ってきた部員は即座に退部というケースも珍しくありませんでした。入部からだいたい1週間で50人くらいは辞めていきましたね。そこから夏の間に40人くらいが辞めます。野球部からスカウトされたわけではなく、県立高校の受験に失敗し入学してくる一般の生徒も野球部への入部は認められていましたが、そのほとんどが残ることはなかったですね。
そんな中、一般受験組で野球部の門をたたいてきた一人の生徒がいました。福岡の久留米でバンドを組んで活動しているという、そのバンド名は「チェッカーズ」という…。高杢禎彦(たかもく・よしひこ)という人物です。名前を見ただけでピーンとくる方々もいることでしょう。1980年代に一世を風靡した「チェッカーズ」の低音コーラス、パーカッション担当だった高杢です。通称は「モク」でしたね。彼とは野球部の同期ということになります。
もちろん、彼と一緒にプレーした思い出なんて全くありません(笑い)。なぜなら、一般受験で野球部に入部してすぐに辞めてしまった、そのうちの典型的な一人なんですから。高杢はただの野球好きですから。1か月くらいで辞めてしまったんじゃなかったかな。夏の大会前にはいた記憶もないですからね。本当に高杢が野球部にいたのかな、なんて思ってしまうほどですが、実は大事な同級生なんです。
のちにチェッカーズとして名を上げて、全国区の有名人になっていきます。84年リリースのセカンドシングル「涙のリクエスト」などは、幅広い年齢層の皆さんに今でも親しまれているんじゃないですか。この年には紅白歌合戦にも出場して、そこからバンド解散の92年まで9年連続で大みそかにはテレビで歌っていた。超有名バンドの一員が、私の同級生です。
私と高杢が再会して会うようになったのは、私がドラフトされた88年以降、日本ハムの選手になってからのことですね。当時の日本ハムの球団事務所は北海道ではなく、東京の六本木にありました。そういうわけではないですが、高杢や他の芸能人の方々と六本木で会ったことも記憶にありますね。
次回も続けて同級生・高杢についてのエピソードをお話ししたいと思います。












