【中島輝士 怪物テルシー物語(8)】1980年の春の甲子園、選抜大会に新3年生として出場することができました。九州の怪物「テルシー」という愛称で呼んでいただいて高校生ながら注目選手として扱ってもらいました。高校野球関連の雑誌などいろんなところから取材していただきました。
1回戦は東東京代表の二松学舎との対戦でした。この試合では3―1で完投勝利を挙げることができました。グラブには前年の10月27日に他界した父・仁(まさし)の名前を書いて試合に出場させてもらいました。もちろん父に買ってもらったグラブです。
そうすると私は投手ですから投球モーションに入るたびにグラブがテレビに映し出されるわけで、後から大変なことになるんです。大人になれば分かることですが、高校球界で話題になっている投手が手にするグラブには相当な広告効果があります。
秋の九州大会が終わって、年明けごろには本当に全てのメーカーさんと言っていいくらいの担当者の方々が高校までグラブを持ってきてくれました。春のセンバツでぜひ、使ってくれという意味ですね。今はそういうことはないでしょうが…。実際に大会で私が使っていたグラブは久保田運動具店さんの「スラッガー」というブランドの製品でした。九州にゆかりのあるメーカーさんで、その時はすごく感謝していただきました。
私の記憶では普段は「ローリングス」社の製品を使っていたと思っていたのですがこのたび、こういう取材の機会をいただいて写真を探していたら見つかりました。この第8回には当時の写真をレイアウトしてもらおうと思い提供させていただきました。
これで何試合も勝ち進んでとなれば良かったのですが、柳川は2回戦で兵庫県代表の尼崎北高に1―3で敗れてしまうんです。はっきり言って、あの春の甲子園での私はもう自分ではないと思うくらいにボールはいかないし、状態が良くなかったですね。こんなことを言ってしまうと言い訳になってしまうんですが、それは事実です。
おそらく、投げすぎだったんでしょうね。当時は来る日も来る日も150球、200球と投げるのが当たり前でした。自分も、そうしないと不安になっていました。どちらかというと肩やヒジを故障するのは、体が弱いからだくらいに思っていましたね。当時は肩やヒジが消耗品であるという考え方は一般的ではなかったと思います。
球速でいえば当時は141キロ、2キロくらいは出ていたのかな。でも、そんなの全然です。当時の自分が投げている映像も見たくないですもんね。本当に球が全然、走ってないですしね。今にして思えば調整に失敗しているんですが、それも言ってしまうとお世話になった指導者の皆さんを責めることになってしまいますし、当時はそんなことを思いもしませんでした。
近頃はスマホで動画や画像を簡単に送信できる時代になりました。現在でも付き合いのある人物で尼崎北の三塁・角谷という選手がいるんですが、当時のテレビ映像をLINEで私に送ってくるんですよ。彼が私の三遊間への打球に飛びついてファインプレーをしている場面です。そんなのいらないですよ(笑い)。
ただ、そうやって当時を懐かしめることは幸せなのだと今は思えるようになりました。












