【中島輝士 怪物テルシー物語(7)】福岡・柳川高のエースとして2年秋の県南部大会で優勝、九州大会でも優勝という結果を残すことができました。この時点で春の選抜に選出されることは確実で、私の存在も世間に知られることとなっていました。これは取材陣から質問を受けていた際に当時の福田精一監督から出た言葉だと記憶しています。「中島を九州の怪物『テルシー』って呼んでやってよ」と名前を広めてくれたんです。

 甲子園の地元、近畿地方の皆さんは春の選抜で6校が選ばれるので、2府4県から満遍なく出場校が選出されるイメージがあるとは思います。しかし、九州8県からは4校しか選ばれないんですね。私が高校2年から新3年に上がるタイミングでの選抜大会では九州22校が推薦の対象で、そこから出場枠4校が選ばれるという形になりました。

 まず、候補を九州大会でベスト4に残った母校の柳川(福岡=このタイミングで柳川商から校名変更)、鹿児島商工、諫早(長崎)、宇土(熊本第2代表)に九州学院(熊本第1代表)を加えた5校に絞られたようです。

 もちろん最初に当確となったのは九州チャンピオンのわが母校・柳川です。続いて準優勝の鹿児島商工です。われわれと戦った決勝戦では8―1と大差がついてしまいましたが、総合的な判断となれば妥当でしょう。次に九州学院と宇土の熊本勢の比較となったそうですが、県決勝で10―0で勝利した九州学院が評価されました。九州学院とはわれわれも九州大会で対戦し延長10回で1―0のサヨナラ勝利ですから、そのあたりも評価されたのでしょう。

 では残る最後の4校目の一枠ですが諫早(長崎)と宇土(熊本)の比較となります。そうなれば、熊本から2校とはなりにくいでしょうから、九州大会で2勝した宇土ではなく諫早が当選する結果となりました。

当時の東京スポーツ紙面でも取り上げられた「サッシー」こと長崎・海星の酒井圭一
当時の東京スポーツ紙面でも取り上げられた「サッシー」こと長崎・海星の酒井圭一

 1980年春の甲子園では「テルシー」と呼ばれ話題にしてもらった私ですが、まずは先に「サッシー」がいたからなんですよ。76年の夏の甲子園で長崎・海星のエースだった酒井圭一さんです。長崎県勢24年ぶりの4強入りに貢献し、その年のドラフト1位でヤクルトに入団された本格派右腕です。いや、その前にネッシーですね。イギリス、スコットランドのネス湖で目撃されたとされる、首長竜のような未確認動物「ネス湖の怪獣」の通称。当時は大きな話題になっていたので、そういう愛称が生まれたんです。

 私としては本当の名前に「ー」を付けるだけだし、普段から「てるし」と呼ばれてましたから違和感なく受け入れられました。今思えばありがたいです。そうやってみんなに覚えてもらえたんですから。福田監督に感謝ですよ。

 ちなみに酒井さんも私も引退後には球団スカウトという立場を経験しています。お互いに九州出身であり、九州地区担当ですから、一緒に活動もしましたしね。酒井さんは私の実家にも泊まりに来られたことがあるくらい、懇意にしていただいてます。

 こうして、待ちに待った春の甲子園だったのですが、実は私は期待されるような活躍をできたわけではないんですね。本当のことをいえば、当時の映像を見たくもないくらいに私の状態は良くありませんでした。