【中島輝士 怪物テルシー物語(10)】高校3年の春のセンバツに出場するも2回戦で敗退。九州の怪物「テルシー」は前評判通りの活躍をすることができず、柳川は2試合で甲子園を去ることとなりました。その後に行われた春の九州大会では決勝戦を含む3試合で完封勝利を収めるなど好投を連発し、九州チャンピオンになることができましたが、肝心な甲子園では自らのパフォーマンスを存分に発揮することができませんでした。

 夏の福岡県予選は1回戦で筑紫工を相手に4―0で完封勝利。2回戦は九産大九州に6―3と勝利し順調な滑り出しを見せたかに思われました。ですが3回戦で福岡に2―6で敗れ最後の夏はあっけなく終わりました。ベスト4でもなく、決勝戦で涙をのんだわけでもなく、こんなに早い段階で負けちゃってるんですね。

 高校生なら最高、5回まで出場するチャンスのある甲子園に私は3年春のセンバツに一度出場できただけでした。本当にもっとできたんじゃないかと今でも思います。みなさんの期待に応えられなかった。前評判は非常に高かったのに。

 それは私が社会人野球の選手になっても、プロ野球の世界に入っても、期待外れに終わってしまったんじゃないだろうかと、今になっても思ってしまいます。周囲には甲子園に一度も出られない人がほとんどだから「期待外れなんかじゃないよ」と言ってくれる人もたくさんいます。それでも私自身はそんな気がしてなりません。

 高校時代のことを思い出していると、当時のチームメートのことも改めて思い出します。私は1年秋から柳川のエースとして投げさせてもらっていましたが、実は私と同じように身長185センチを超えるような投手がもう1人いたんです。

 その彼の方が完成度が高かったというか、投手としてまとまっていて、私よりも早く上級生の試合で投げさせてもらっていました。ただ、故障がちだったこともあり高校3年間で思ったような成績を残すことができなかったんですね。

 私よりもスリムな感じで、ルックスも男前だったから女性にモテてましたね(笑い)。私自身、お山の大将のまま高校野球の世界に入ってきましたから、彼に負けるつもりはありませんでしたがいいライバルだと思っていました。

 私と彼の2人で2枚看板で投げられていたらもっと柳川は強かったんじゃないか。現在のように高校野球の世界でエース級の投手が複数いるようなチームはまれでしたからね。エースが先発、完投というのがほとんどでしたし。あの時代に彼と2枚で投げられていたら、甲子園にももっと行けたんじゃないかと思っています。

 その彼は高校を卒業した後、大学を経て大手企業の社会人野球チームの選手として活躍しました。当時の柳川は地元の福岡県を始め佐賀、長崎、大分、熊本辺りからえりすぐりのメンバーを揃えていました。福田精一監督の人脈で精鋭が集まった時代でした。

 今のように科学的かつ効率的なトレーニング方法なんてものはなかったですけどね。創意工夫を凝らしたというか、アイデアをいろいろとひねり出してくれて野球部員が飽きないような練習を考えてくれていました。