【中島輝士 怪物テルシー物語(20)】1981年から社会人のプリンスホテル野球部の一員となった私は、3年目の83年に右肩を故障してしまいました。当時は投手としてプレーしていましたから死活問題です。ただ、稲葉誠治監督の助言や石山建一助監督のアシストもあり、野手として現役を続けることができました。

 実際に野手をやってみたら、何とそこまで苦労をすることもなく打てたんです。打てちゃったんです。肩を壊し、選手生命の危機を感じた時は投手に固執することなく、これも運命だと思って受け入れました。将来のプロ入りも断念せざるを得ないのかなと、諦めかけていたんですが…。稲葉監督が「1年だけ野手でやってみるか」と言ってくれたひと言で打者に転向し、何だか自分が生まれ変わったような気がしましたね。

 本格的な野手の練習など本当にしたことがなかったですからね。高校時代はピッチャーでしたから、練習メニューは投手としての内容をこなしていました。高校時代、試合では4番も打たせてもらっていましたが、打席に立てば打てちゃっていただけで、特別な練習をした記憶もなかったです。

 社会人同期の藤井康雄(のちに阪急、オリックス)は野手として順調に成長していました。その時点では打者としての技術には差があったと思います。僕は一からのスタートですから練習はしました。もともと練習はし過ぎるくらいだったので、とにかくバットを振りました。練習中も、寮に帰ってからもバットはよく振った覚えがあります。それでも、野手1年目の83年はチームが都市対抗に出場しましたが、私がメンバーに選ばれることはありませんでした。

 野手に転向して2年目が終わろうとしていた頃、84年秋に入団時の助監督だった石山さんがプリンスホテルの野球部監督に復帰されました。その時は「テルシーはバッターになってよかったな」と喜んでくれましたね。試合で結果を出せる機会も増えていき「テルシーはモノが違うぞ」なんて盛り上げてくれて。それを周りにも広めてくれたんですよ。

 石山さんは早大の監督もされていたほどですから、アマ球界の人脈がすごいんですよ。だからいろんな人に私の評判を流してくれて…。広報宣伝部長のような存在でもありました。この連載記事がスタートした後、石山さんに電話で連絡したんです。すると、喜んでくれてね。「それには俺も出てくるの~」とおっしゃってました。

 次回は、その恩師の石山さんであったり、私の野手転向後などについてお話ししたいと思います。84年といえば、私の“同級生”たちは大学4年生になるシーズンです。その時点で、投手を諦めて野手に転向した社会人野球の選手が、プロになる時間はそう長くは残されていませんでした。