【中島輝士 怪物テルシー物語(21)】1983年に右肩を故障し84年からは野手転向。私の野球人生はここでガラリと変わることになります。野手1年目の84年はプリンスホテル初代監督の稲葉さん、2年目の85年からは2代目監督の石山さんがチームに復帰されました。

 石山さんは早大の監督時代からも含め、いろんな時代のいろいろな選手を見てきています。打者を見る眼力というものを備えた人物だと思うんですね。早大時代には岡田彰布さん(阪神前監督)を見ていますし、85年には藤井康雄をプリンスホテルの4番に抜てきしています。

 岡田さんは新人王を獲得するなどNPB通算247本塁打の強打者であり、藤井はオリックスでブルーサンダー打線をけん引し282本塁打を放ったスラッガーですからね。

 そもそも石山さんは静岡県立静岡高校の出身。甲子園経験校でありながら静岡県内有数の進学校でもあります。60年には春夏連続で甲子園に出場し夏は準優勝。早大に進むと64年の東京六大学春季リーグで優勝を経験しています。大学卒業後は日本石油に進み67年の都市対抗で優勝を経験し、引退後の74年から早大の監督に就任するというアマ球界の生き字引のような人です。

 早大監督時代も大学の先輩である西武グループ総帥・堤義明さんの意向で、国土計画から出向という形で着任。就任1年目に東京六大学春季リーグで優勝を果たしています。78年には3冠王の岡田彰布さん、金森栄治さんを擁する強力打線で秋季リーグを制し、それを置き土産に監督を退任すると、そのまま創部したばかりのプリンスホテル野球部の草創期に関わっていきます。

 アマ球界での功績を認められ、95年からは巨人の編成本部長補佐兼二軍統括ディレクターに就任。その後は編成本部長も務められ、FAでの清原和博の獲得などにも尽力されています。とにかく、石山さんは経歴からも分かるように人脈がすごいんです。私が打者に転向し、結果を出し始めたら「ほら、コイツはちょっとモノが違うぞ」みたいに、周りに広めてくれる。

 プリンスホテルの監督、勝負師でありながら、宣伝広報部長のような一面を持っていました。野手としてはまだまだ「ひよこ」のような存在だった私を、後に全日本に送り出してくれることになるわけですからね。バッター転向を勧めてくれた稲葉さん、私の存在を宣伝してくれた石山さん、2人とも間違いなく恩師ですね。

 石山さんは6月3日に亡くなられた長嶋茂雄さんとのご縁も深かったですね。石山さんが早大の監督だった76年ドラフト前、当時は早大4年で社会人野球に進むことが内定していた松本匡史さんの獲得をミスターが強く希望されて…。松本さんは右肩の脱臼に悩んでいてプロ入りには前向きではなかったんですが、巨人がドラ5で強行指名し入団。長嶋さんの強い推しがあった結果、盗塁王2度の「青い稲妻」が誕生したそうです。

 私もそうですが、人との出会いによって野球人生というのは大きく変わるものです。