【中島輝士 怪物テルシー物語(22)】野手に転向したとなれば、当たり前ですが本気ですよ。しかし、高校から投手として社会人野球に入ってきて、3年目で故障。4年目から本格的に野手の練習をしたとなると、大学4年から投手を諦めて野手になるようなものです。客観的に見れば、そんなに簡単な転身ではなかったと思うんですよね。
しかし、自慢じゃないんだけど、もともと練習しなくても普通に打てちゃったんです。ただ、社会人野球のレベルまでくると、対戦相手の投手のボールも相当に速いですからね。当時の社会人は金属バットを使用していたんですが、そう簡単に引っ張る打撃をすることはできませんでしたね。
とはいえ、バットに当てること、捉えることはできたので右翼方向、右打者の私からすれば反対方向へ大きい当たりを打つことができたんです。自分としては引っ張れないだけだったんです。でも、その当時の打撃コーチが「反対方向に大きい当たりを飛ばすことができるんだからそれは長所だな」と評価してくれていました。
当時は内心、野手の先輩たちに対して「いつもこんなに練習してるのに、なんで打てないんだろう」と思っていた節もありました。いざ、打撃練習でバッティングケージに入ると私は普通にポンポン打てるわけですよ。当時のプリンスホテルは社会人野球の世界ではそうそうたるメンバーを揃えていましたが、プロ目線で言えばそこまでの注目野手はいなかったと思います。
同級生の藤井康雄(後に阪急、オリックスでプレー)は「掛布2世」と言われ、期待の星でしたが。最初の方は私は8番を打たしてもらっていたと思います。そこから、真剣に野手として腕を磨いて1986年くらいから手応えを感じ始めていました。
86年の都市対抗では私は8番・左翼として試合に出場していました。ただ、86年ドラフトで藤井が阪急に入団し、87年からは私が4番・一塁に抜てきされたんです。その年の都市対抗では新4番打者として予選で打率3割5分、3本塁打と結果を残すと、東京の第1代表で出場した本大会でも活躍することができました。
日本IBM野洲と戦った1回戦では、2本塁打を含む4打数3安打3打点。準決勝までの4試合の全てで安打を記録し、16打数7安打、打率4割3分8厘、4打点と目立つ活躍をすることができました。
同じ大会では85年に入社してきた小川博文(後にオリックス)も大活躍でした。19打数9安打の打率4割7分4厘、4打点と打棒爆発です。私とともに優秀選手として表彰され、2人で初めて全日本に選出されました。
その結果、8月に開催された第14回アジア野球選手権大会兼ソウル五輪アジア地区予選に出場する流れとなりました。社会人と大学生の混成メンバーが招集されました。全員が都内に集結した初日、私は全日本の鈴木義信監督に衝撃の言葉を言われることになります。












