【中島輝士 怪物テルシー物語(23)】福岡・柳川高からプロの誘いを断って社会人のプリンスホテルに進んだのが1981年。3年目の83年には右肩の故障で投手を断念し野手転向という道に足を踏み入れました。84年から野手として試合に出場し、87年の8月に初めて全日本に招集されることになります。

 87年の都市対抗では4番・一塁としてプリンスホテル初のベスト4進出に貢献。2番・二塁だった小川博文(後にオリックスほか)とともに優秀選手に選出され、8月24日から日本開催で行われた第14回アジア野球選手権大会兼ソウル五輪アジア予選の日本代表メンバーに選ばれたわけです。

 東京・港区にあった合宿施設には社会人と大学生の連合メンバーが集められました。その初日、私は鈴木義信監督(慶応義塾大~東芝)に声をかけられました。宿舎の近くに公園があってですね、夜に1人で素振りをしていたんです。すると、鈴木監督が現れて「ずっと4番で使うから、4番から外さんから。何があっても絶対に4番から外さない」と言われたんですよ。

 そう言ったかと思うと、鈴木監督はそのまま宿舎に戻っていかれました。ん? なんだったんだという感覚、初めての日本代表なのにどういうことなの? もう、驚きしかなかったですね。

 確かに都市対抗では結果を残しました。それでも初代表の選手というのは、ベンチスタートからチャンスをもらって結果を出してスタメンを獲得していくものです。当時の全日本の4番候補には日本鋼管の金久保孝治さんや、日産自動車の鶴岡昌宏さんという左の強打者が存在しました。それなのに、野手に転向して4年の私が日本代表の4番だなんて。これは重圧でしたね。

 大会は日本、韓国、台湾、中国、オーストラリア、インド、グアムが参加。優勝は台湾で日本は2位という結果に終わりました。さて、4番・中島の成績はどうだったかというと大会通算28打数20安打、打率7割1分4厘、4本塁打、14打点でアジアの3冠王となることができてしまった。

 自分なりの分析なのですが、当時、国際試合で対戦する投手はスライダー系を投げる投手が多かった気がするんです。私は長身で腕が長いこともあって、真ん中から外寄りのボールは得意ではありました。結果的に、いきなり全日本の4番に据えられても打ててしまったんです。

 反対に、インコースにきっちりしたコントロールのある投手は苦手でしたね。ただ、私はローボールヒッターでして、落ち切らない変化球なんかを拾って打つことも得意でした。それは国際大会で初見の投手に対しても対応できちゃったんですね。

 その後も日本代表に選んでもらって4番を打たせてもらいましたが順調に結果を残すことができました。すると、88年のソウル五輪代表という道も見えてくるわけですが、私の中では投手を辞めて一度は断念したプロという世界に魅力を感じていました。

 ただ、物事はそう簡単には運ばないんです。