【中島輝士 怪物テルシー物語(24)】高校から社会人野球に進み3年目に故障を経験し投手を断念。野手に転向したのは、大学に進学していたら4年生の学年ということになります。そこから実績を積み上げていくんですが、全日本に選出されたのは社会人7年目の1987年。初の日本代表として臨んだアジア選手権兼ソウル五輪予選では4番打者に抜てきされ4本塁打と7割を超える打率を残してしまい、五輪へ向けて外せない選手という位置付けになってしまいました。
もともと、高校時代からプロ志向が強かった私です。その時点でも、もちろんプロ志望でした。87年のドラフトにかかるならプロに行きたかったです。全日本に入った時に、ある球団の人から「オリンピックはお金にはならんから、プロに行った方がいいよ」と声をかけられたこともあります。私自身は最初からプロに行く気満々でしたね。
そうするとですね、私は山本英一郎さんに呼ばれるわけですよ。山本さんはキューバが大好きな方で、当時のカストロ首相と何回も面談しているような人物なんですね。今の時代の人たちには分かりにくいので説明しますと、山本さんは19年生まれでして、その当時でもう68歳という年齢でした。
戦前から慶大、社会人の鐘紡で外野手としてプレーしていて、戦後は審判員を務められていました。野球の国際化をライフワークと考えていて、国際野球連盟(IBAF)の日本代表として海外に派遣されるたび、野球を五輪競技として世界普及すべきとの持論を展開。国際オリンピック委員会(IOC)総会が開かれるたび、IBAFの一員としてロビー活動に精力的に取り組んだ人です。
その結果、84年のロサンゼルス五輪、88年のソウル五輪で野球が公開競技として採用され、92年のバルセロナ五輪では正式競技となりました。山本さんは代表選手を選出する際に国内団体を統括する組織として「全日本アマチュア野球連盟」も発足させています。こういったネットワークづくりのおかげで、日本代表選手選出の際には偏りがなく、平等で実力通りのセレクションが行われていたと思います。97年には野球殿堂入りもされています。野球界の功労者です。
そんなアマチュア野球界の父のような山本さんは、4番・中島なくしてソウル五輪の全日本メンバーは組めないと考えておられました。そりゃ、山本さんの立場からすればそうでしょうね。もうね、新宿プリンスホテルですよ。2か月ぐらいの期間かな。毎週、毎週、山本さんはマンツーマンで説得です。私を日本代表にとどまらせソウル五輪の4番としてプレーさせることは、山本さんの使命だったと思います。
8月のアジア大会が終わって、次は10月にキューバで開催されるインターコンチネンタル杯ですよ。その日本代表にも私は選ばれているわけで、プロのドラフトも迫ってくる時期です。私がキューバへ行く、行かないの問答が何度も何度も繰り返されました。
その結末はもう、この時点での未来を知る読者の皆さんには既知の情報でしょう。オールドファンの方々がよく知る大物の「鶴の一声」で私の五輪出場は決まりました。












