【中島輝士 怪物テルシー物語(25)】1987年の夏、私は社会人野球プリンスホテルの選手として初めて全日本に選ばれ、4番打者に抜てきされました。社会人3年目で故障のため投手を断念し、野手転向した4年目というタイミングでした。そこで結果を出してしまったものですから、翌年に迫っていたソウル五輪にも日本代表として活躍することが期待されていました。
当時のプリンスホテル社長だった山口弘毅さんは、当時すでに25歳だった私の年齢のことを考慮してくれて、プロ入りに前向きな態度を取ってくれていました。ただ、アマチュア球界のドン・山本英一郎さんとしては、ソウルオリンピックに4番・中島が不在というのは考えられないの一点張りです。
私は初の全日本選出となった87年8月のアジア大会でも好成績を残し、9月にキューバで行われたIBAFインターコンチネンタル杯の日本代表メンバーにも選ばれていました。その直後にはプロ野球のドラフト会議も控えています。中島をキューバに連れて行くのか、行かないのかと、押し問答が繰り返されていました。
そうすると、この問題に誰が収拾をつけるのかということになってきます。落としどころが必要ですよね。ここで、プリンスホテルを含む西武グループ総帥の堤義明さんが動きます。堤さんはJOCの会長まで務めた人物ですから五輪に対する造詣が深い。最終的には山本さんを通じて、堤オーナーから私に対し「オリンピックに行け」ではなく「行ってみたらどうだ」と提案を受けることになりました。
提案という名の強制ですけどね(笑い)。私としてはプロ野球の世界に行きたかったですが、あの時点でのあの状況では仕方なかったですね。私は結局、日本代表としてキューバに行くことになりました。出場したIBAFインターコンチネンタル杯では6本塁打という結果を残して、さらに代表からは離れられない状況になりました。
88年に韓国・ソウルで開催される五輪の代表入りは間違いありません。そのためにプロ入りをしないよう、堤義明さん、山本英一郎さん、プリンスホテルの石山建一監督らから説得を受け、私はそれを受諾してオリンピックで金メダルを獲得することを目標にしました。
87年、私は初めて社会人野球のベストナインを一塁手として受賞しました。83年の右肩の故障で投手を断念し、野球人生の危機を感じていた私にとっては、生まれ変わって地獄から天国に這い上がってきたようなものです。
そこから翌年9月のソウルオリンピックまでずっと全日本の4番を務めました。そういうことで私はプロ入りが遅くなってしまいました。それでも悪いことばかりではありませんでした。オリンピックの日本代表というのは名誉なことです。私の地元、福岡では「中島輝士・ソウル五輪野球日本代表」と垂れ幕が掲げられていました。高校2年で父を亡くして、母は地元で天ぷらなどを販売するお店を営んでいましたが、少しは親孝行ができたのかと思います。












