【中島輝士 怪物テルシー物語(26)】紆余曲折ありましたが、私は1988年に行われたソウル五輪の日本代表に4番打者として名を連ねることになりました。全日本に選ばれて初めて分かることなんですが、日の丸の重みというのか、日本代表の責任感というのか、選ばれた人間にしか分からない感情というものを知ることができました。それは今でも大切な思い出です。

 87年に行われたソウル五輪アジア地区予選を兼ねたアジア大会では日本、韓国、台湾、中国、オーストラリアに加え、インド、グアムが初参加。結果は台湾が決勝で日本を破り優勝しました。日本は2位に終わったものの五輪出場権を確保。初の全日本ながら4番を打たせてもらった私は大会通算28打数20安打、打率7割1分4厘という数字を残すことができました。

 加えて4本塁打、14打点でアジア大会3冠王。決勝戦で台湾に3―9では敗れたとはいえ、私は4打数4安打2本塁打でチームの全3得点をたたき出しました。これはまた、改めて後に書かせていただきますが、この大会での活躍が遠い未来の私の野球人生にも関わってくるんです。

 しかし、今はソウル五輪の当時に話を戻しましょう。五輪代表権を勝ち取った日本代表ですが、前年のアジア予選とソウルでの本戦とではメンバーがかなり違いました。読者の皆さんの印象では投手では野茂英雄(新日鉄堺=後に近鉄、ドジャースなど)、潮崎哲也(松下電器=後に西武)らが躍動し、捕手は古田敦也(トヨタ自動車=後にヤクルト)が務めたという印象が強いかもしれません。しかし、野茂も潮崎もアジア予選の当時はまだ社会人野球1年目で代表メンバーに姿はありませんでした。

 彼らは88年の時点でまだ社会人2年目。五輪イヤーが高校を卒業してからまだ間もない19歳から20歳になるというシーズンでした。潮崎は11月生まれということで、五輪の本番でもまだ未成年で、史上最年少の全日本と報道されてましたね。野茂も潮崎も五輪の直前にイタリアで開催されたIBAFワールドカップで好投していました。急成長を遂げた若い2人に加えて、私の後輩でもある石井丈裕(プリンスホテル=後に西武)の3人が五輪ではローテーションを組むことになります。

 その先の未来を知っている今からすれば当たり前なんですが、彼らの才能は本当に特殊でしたね。高校から社会人という次のレベルに触れて急激に能力が上がる、まさに伸び盛りの時期に五輪を迎えたんですね。アジア予選で代表だった投手で、ソウルでも代表として名を連ねていたのは鈴木哲(慶大~熊谷組=後に西武)くらいじゃなかったでしょうか。そういえばアジア予選では長嶋一茂(立教大)も入っていましたが、87年ドラ1でヤクルトに入団しましたね。

 代表20人のうち、その後に3人もの名球会入り選手を生み出したソウル五輪日本代表。昭和最後のドリームチームの快進撃が始まります。

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