【中島輝士 怪物テルシー物語(45)】ようやく念願のドラフト指名を受け、ダイエーとの抽選に勝った日本ハムが私との交渉権を獲得することになりました。私としては条件などに関してはもう、変なこだわりは何もありませんでした。高校時代から遠回りして26歳になり、ようやくプロの世界に入れるわけですから。もう、その事実だけで十分でした。

 高校時代、父が他界したこともあり、プロからの誘いを断って進路を社会人野球に決めた経緯があります。父が亡き後の家計のことを案じ、母は安定した社会人への道を希望してくれたわけです。私とすれば高校からいきなりプロにチャレンジしたかったのですが、そういった事情もあって、この時点では断念しています。

 おぼろげにですが、周囲からは「プロに行けるよ」というふうに評価されて、自分でも何となくそんな気持ちになっていたと思います。でも、そんなに簡単なものではありません。私は投手として社会人野球の世界に飛び込みましたが、最初から結果を出せたわけではありません。

 そうこうするうちに、社会人3年目で右肩を故障して投手ができなくなりました。野球部をクビになっていてもおかしくありませんでした。ですが、当時の稲葉監督、石山助監督のおかげで野手に転向し野球を続ける道が開けたんです。

 社会人野球に入って故障をした時、母は私のことを高校時代にプロに行かせてやればよかったと思っていたかもしれません。私は野手として必死になって成長を目指し、1988年ソウル五輪では4番を打たせてもらい、銀メダルを獲得することができました。そしてプロへの道までが開けました。ある意味、僕のプロ入りに際してホッとしたというのか、最も喜んでくれていたのは母なのかもしれないなと思っています。

 日本ハムとの初の入団交渉では球団史上最高条件となる契約金7000万円、年俸720万円というオファーを提示していただきました。私としては十分な条件でした。でも、実はこの時点では合意してないんです。初交渉の後のスポーツ紙報道では「全日本の4番打者には日本一の契約金と年俸を用意してほしい」と私が球団に吹っかけたような報道もありました。

 でもね、本心ではそんなことなかったんですよ。プリンスホテルの石山監督がマスコミの注目を集めるために、私に意図的にそういう発言をするように仕向けたんです。もちろん、裏では球団常務だった大沢啓二さんとの間で話も出来上がっていたに違いありません。

 私の後から入ってくる後輩たちのためにも、演じましたよ。プリンスホテルの選手はこれだけの条件を揃えないと獲得できないんだ。それだけの価値があるんだと。そんなイメージを野球界、世間に植え付けることに意味があったというのは石山監督の考えでした。やっぱり石山さんは監督というより、宣伝部長でしたね。

 最終的に私は日本ハムと契約金8000万円、年俸840万円で入団(金額はすべて推定)が決まりました。これは巨人ドラ1の原辰徳さんや西武ドラ1の清原和博の条件と同じということでした。