【中島輝士 怪物テルシー物語(42)】前回の当欄でお話ししました大事故。当時の西武ライオンズ球場やプリンスホテルのグラウンド、寮からも近い多摩湖、狭山湖周辺のクネクネした道を暴走中に起きたものでした。下手すれば命の危険があってもおかしくなかったと、今でも思います。
雨の中、夜中の3時半くらいに発生した事故は幸いにも他人を巻き込むことのない単独事故でした。事故車両は車輪は動きますが、自走はできない状況でした。これをですね、プリンスホテル野球部の面々で夜中に手で押してですね、武蔵村山方面に向かい、ある公園まで運びました。
その頃には、もう朝の6時か7時くらいにはなっていたでしょうか。途中、中学生くらいの2人組が湖に釣りに行く最中だったようで「手伝ってくれ」と言って一緒に押してもらいました。公園にたどり着くと車にブルーシートをかけて一旦、置いておくしかありませんでした。これが、私が車を手放すことに決めたきっかけです。
実はというと車を所有することだって、当時の20歳くらいの僕らは禁止でした。それなのに隠れてクラウンだの、スカイラインだのを所有して乗り回していたんですよ。給料も安いからガソリンも「10リットルだけ入れて」とかね、そんな時代です。車に乗って一緒に遊んでいたメンバーには後に西武に入団する高山郁夫や、阪急に入る藤井康雄もいたんです。
今だったら大問題でしょう。いや、当時でもバレていれば大問題だったはずです。
で、この日は盛りだくさん過ぎるのですが、知人から電話が入り「B型の血液が緊急で必要だから協力してほしい」と依頼が入りました。夜通し遊んで事故まで起こしていましたが、我々の体はピンピンです。一緒にいたメンバーでは私、瀬戸山、高山がB型でした。日曜日で休日だったため、すぐに病院に行って献血させてもらいました。
でも、朝の9時くらいでしたか。我々の血液を必要としていた患者さんが亡くなられたと連絡が入りました。亡くなられたのは全く知らない人物でしたがショックでした。自分たちは大事故を起こして無事だったのに…。そんな気持ちになりました。
こういった事件がきっかけで、私も車を売ることに決めました。これからプロに行くよと期待してもらっている立場の人間が何してるの?と神様に言われているような気がしてね。
その後、プリンスホテルの全体の社長になった野球部の先輩・小山正彦さんに、この時の話をする機会があったんです。「お前…そんなことあったんか!」って怒られました。今となっては笑い話なんですが、若気の至りというのは怖いです。
そんなこんながありまして、私の長かったアマチュア野球選手としての時代が終わろうとしていました。柳川高で「九州の怪物・テルシー」と言われた時代から、プリンスホテルで8年もの歳月が過ぎていました。
高校卒業時、ソウル五輪を控えた1987年の秋、プロ入りをせずに随分と遠回りをしました。26歳となる88年オフはついにプロへの扉が開くことになります。












