【中島輝士 怪物テルシー物語(41)】高校を卒業してから私が8年間も在籍させてもらったプリンスホテル野球部。高校時代からプロ入りのチャンスがありながら、客観的に見れば足踏みや、遠回りをしたかもしれません。でも、ソウル五輪に出場し銀メダルを獲得することもでき、日本ハムにドラフト1位という形で送り出してもらうことができました。本当にプリンスホテルには感謝しかないです。

 投手としては右肩の故障に見舞われるなど紆余曲折がありました。結果的に野手に転向してプロ野球の道へ進むことができたわけですが、故障以外にも実は選手生命の危機があったんです。まだ、私が20歳くらいの頃です。休日前の土曜日に、みんなで遊んだ帰りの深夜3時半くらいのことでした。私は野球部の仲間の車に同乗し西武拝島線、多摩モノレールの玉川上水駅あたりから西武球場に向かうカーブの多い道を爆走しておりました。

 私は運転してはいませんでしたが、仲間何人かで2台の車に分乗。多摩湖、狭山湖の周辺の道路を結構なスピードで走行していました。おそらく90キロくらいは出てたと思います。クネクネした交互通行の広くはない道ですから、相当に危険だったと思います。そして案の定、事故を起こしてしまうんです。

 走行中の道路には行き止まりがあって、手前で曲がらなきゃいけなかったのですが、私が乗り合わせた車はハンドル操作が間に合わず、そのまま突っ切ってしまったんです。雨が降っていて道路もスリップしやすい状態でした。カーブを曲がりきれず、スリップして車はガードレールを破ってそのまま行っちゃった。これは死んだと思いましたね。この瞬間、時間がどれほど長く感じたことか。いわゆる走馬灯というのでしょうか。

 ガードレールの向こう側は工事中で土砂が積んでありました。車はそこに突っ込んで止まったからまだ良かったんですが、車はもう走行不能です。私の隣には瀬戸山満年という捕手が座っていました。愛知・中京高から1980年ドラフトで巨人に4位指名されるも拒否してプリンスホテルに入部してきた同期です。

 彼はその後、89年の都市対抗野球で首位打者となりプリンスホテルの初優勝に貢献しました。そして橋戸賞、社会人ベストナインにも選出されています。あの事故でもしものことがあったら、そんな未来は訪れなかったと思うと恐ろしい話です。

 あの日は9月27日でした。実は私の祖父の命日は9月27日なんです。ちなみに私の父の命日は10月27日で、私の誕生日は7月27日。27という数字には何かとご縁があると私は思っています。その祖父は実は交通事故で亡くなっていて…。と思うと、何かを感じずにはいられませんでした。

 私が事故の車に同乗していた時、カーステレオからは松任谷由実さんの「守ってあげたい」が流れていたこともはっきり覚えています。祖父が守ってくれたんだと、私は信じています。ここで私に何かあれば、ソウル五輪の銀メダルも日本ハム・ドラフト1位という未来も消し飛んでいたかと思うとゾッとしてしまいます。