【中島輝士 怪物テルシー物語(37)】社会人野球・プリンスホテルの一員として全日本に選ばれていた時代、私は世界王者のキューバ野球に衝撃を受けました。当時のキューバ代表はまだ、MLBへの人材流出が深刻な状況ではなく、まさに国内最強チームを編成することが可能でした。

 野球ファンなら忘れない名前、リナレス、キンデラン、パチェコを中心とした打線が強烈でした。そんな中、中堅を守っていたビクトル・メサという選手がいたんですが、私にとってはすごく印象に残っているんです。

 現役時代はキューバ代表として多くの大会に選出され、1992年のバルセロナ五輪で金メダルを獲得しています。キューバ国内リーグでは1752試合に出場し通算打率3割1分8厘、217本塁打を記録した名選手です。

 キューバ国内リーグ引退後の96年には日本の社会人野球・ニコニコドーでプレーして、第24回社会人野球日本選手権では首位打者、優秀選手に選ばれています。99年には社会人野球のシダックスに在籍し、第26回社会人野球日本選手権でチームを初優勝に導いています。このシーズンでは打撃賞と最優秀指名打者にも選ばれていますね。

 現役引退後は、13年の第3回WBCや、15年に開催された第1回WBSCプレミア12のキューバ代表監督を務めています。

 メサがその、キューバ代表チームの監督として活躍していた頃ですよ。私としてはメサは対戦相手であったわけで、覚えているのは当然なのですが、全日本のメンバーとしてしのぎを削っていた時代から数えて20年以上も経過した未来に、監督同士としてメサと再会することになったんです。

 まだ、この連載では私はプロ野球選手にもなっていないのですが、少し時計を動かします。私は88年のソウル五輪では全試合で4番打者を務めさせてもらい、その秋のドラフト1位で日本ハムに入団することになりました。そこから98年シーズンをもって引退し、さらに10年以上の時を経て台湾プロ野球リーグに指導者として参加しています。

 2011年、私は台湾の統一セブンイレブン・ライオンズのコーチに就任しました。そして翌12年途中から同チームの監督に就任しています。その時期にオール台湾とキューバ代表のエキシビションマッチが台湾で行われたのですが、私はオール台湾の監督、メサがキューバ代表監督として会見で一緒になったわけですよ。

 一瞬、目が合った瞬間に「おお、メサじゃん」という感じですよ。88年の五輪前ですかね、キューバで行われた国際試合の際に私とメサはキューバの街で一緒に写真を撮ったことがあったんです。その話をするとメサも「ああ、あの時ね、もちろん覚えているよ」と懐かしそうにしていました。

 当時のキューバの主力はアルフレッド・デスパイネ(のちにロッテ、ソフトバンクでプレー)、ユリエスキ・グリエル(のちに横浜、アストロズなどでプレー)がいました。試合ではデスパイネに満塁ホームランを打たれたのを覚えています。

 20代でアマチュアとして対戦しプロ野球選手を引退してなお、ナショナルチームの監督として再会できるなんてね。野球がつくってくれたご縁に本当に感謝ですよ。