【中島輝士 怪物テルシー物語(36)】私が全日本に選ばれるようになり、印象に残っている対戦相手の1つにキューバという国があります。現在ではそこまで騒がれない存在となってしまいましたが、私がアマチュア球界日本代表としてプレーしていた1980年代後半当時のキューバといえば、間違いなく野球大国でした。
キューバ野球は80年代から90年代にかけては最強の名をほしいままにしていました。82年から97年の間、公式戦では無傷の151連勝。各国の代表チームが何度挑んでもはね返されるキューバナインは当時「赤い稲妻」と呼ばれていました。
世代にもよりますが、名前を聞いただけで、なんとなく思い出すんじゃないですかね。オマール・リナレス、オレステス・キンデラン、アントニオ・パチェコなどなど。MLBでプレーすれば必ず通用しただろうと思えるような強打者が居並び、世界選手権での7連覇を含む11度の優勝、オリンピックでは金3個、銀2個とメダルラッシュを演じています。
世界の舞台でキューバを倒して金メダルを取ることは、アマチュア野球界の悲願でした。当時は社会情勢の背景も微妙でしたからね。社会主義国のキューバからすれば、国の威信がかかっているし、自らの家族の生活も背負っていたでしょうから。ハングリーさというか、打つだけではなくて、全てにおいて貪欲な野球をしていました。
国際大会でいえば96年のアトランタ五輪の頃までは国際大会では金属バットが採用されていました。それはもう、キューバの打者の打球は速かったですよ。投げる投手も大変だったでしょうし、一塁や三塁を守っている選手も大変でしたよ。
キューバの野球を振り返ると1864年に伝来したとされる記録があります。1890年代には70を超えるプロチームが存在するほどに野球文化が成長していました。ただ、1959年のキューバ革命以降には米国との関係が急激に悪化し、キューバの野球はアマチュアによる国内リーグに一大転換しました。選手たちはキューバの国家公務員という形で“国技”となった野球を発展させていきました。
日本代表チームがキューバと初対戦した記録は72年にニカラグアで開催された世界選手権までさかのぼります。その時の成績は0―2で敗戦。それ以来、日本はキューバのナショナルチームに7連敗と1勝も挙げることができませんでした。
78年、オランダで行われたハーレム国際大会で8―2の白星を挙げたのが日本代表の対キューバ初勝利でした。その試合で社会人野球・東芝府中の一員だった落合博満(のちにロッテ、中日、巨人、日本ハムでプレー)さんが貴重な打点を挙げています。
88年、ソウル五輪の直前にイタリアで行われた世界選手権の決勝トーナメントではキューバ戦で、若き日の野茂英雄が先発しました。初回、パチェコに先制2ランを浴びるも2回以降立ち直り、8回途中まで力投した試合がありました。試合には負けてしまいましたが、野茂対リナレスの真っ向勝負は今でも語り草です。
当時のキューバ代表でセンターを守っていた選手にビクトル・メサという選手がいたんですが、この選手とはまた、遠い未来に出会うことになるから不思議なものです。












