【中島輝士 怪物テルシー物語(33)】野球ファンの方々からすれば、石井丈裕は1990年代前半に西武の黄金期を支えた投手という表現の方が分かりやすいでしょうか。私にとっては社会人野球・プリンスホテル時代のチームメートであり、ともに88年のソウル五輪を日本代表として戦い、銀メダルを獲得した大切な仲間の一人です。
石井と出会い、プレーした時はすでに社会人。つまり、それなりの実力を持っているからこそ、プリンスホテル野球部に入部してきたわけです。ただ、高校や大学時代に圧倒的な結果を残していれば、社会人に進む以前にプロから声がかかっていても不思議ではありません。ポテンシャルはありながらも、大ブレークに至らなかったのは、それなりの理由があったはずです。
石井の場合は早実時代の同級生に荒木大輔という存在がありました。高校野球ファンなら、この名前を忘れることはないでしょう。1年時からエースとして活躍し、全国に「大ちゃん旋風」を巻き起こしていました。それもあって石井は荒木の控えという立場でした。
3年生となった82年の春のセンバツでは、ベスト8まで勝ち進むも石井の登板機会はなし。同年夏の甲子園では1回戦で宇治(京都=現立命館宇治)と対戦し、大差でリードした場面で荒木をリリーフして甲子園初登板を果たしました。しかし、準々決勝の池田(徳島)との試合では、荒木を救援して水野雄仁(後の巨人ドラフト1位)に満塁本塁打を浴びて敗戦投手となりました。
法大に進学すると1学年上に西川佳明(後の南海ドラ1)、同学年には猪俣隆(後の阪神ドラ1)がいて、石井はエースではありませんでした。東京六大学で石井が公式戦デビューしたのは3年の秋季リーグ戦です。4年となった86年の春季リーグで3勝を挙げてベストナイン。同年の日米大学野球選手権大会、第29回アマチュア野球世界選手権で日本代表の座を勝ち取りましたが、高校でも大学でもいつも自分の上に誰かがいる2番手の野球人生が続いていたと思います。
東京六大学リーグでの通算成績は8勝4敗。同期の猪俣は阪神にドラフト1位で指名されましたが、石井は社会人のプリンスホテルに進み、そこで私と出会いました。その後は着実に成長を遂げ、国際試合でも結果を残し続けました。88年ソウル五輪日本代表にも順当に選出され、右ヒジの故障で長いイニングの投球が難しくなった渡辺智男に代わり、全日本のエースとしての役割を担いました。
プロとしてのキャリアを89年からスタートさせた石井はオープン戦でも結果を残し、開幕一軍に食い込みました。当時の西武の先発ローテ陣の顔ぶれは壮観です。渡辺久信が15勝、郭泰源は10勝、松沼博久も11勝、渡辺智男は10勝と4人もの2桁投手。後に名球会入りする工藤公康も名を連ねていました。
一方、1年目の石井は4勝4敗、3セーブで防御率4・33という成績。プロに入っても2番手より後ろの立場の野球人生が始まりました。でも、石井はここで終わりませんでした。












