【中島輝士 怪物テルシー物語(31)】立命館大学4年だった1987年に初の全日本入り。その秋のドラフトでは指名漏れを経験し、88年のソウル五輪で正捕手を務めた古田敦也の話を前回から続いてお届けします。
私は彼の成長を目の前で体感していた一人です。私とて全日本で4番を任せられ重圧のかかる中で結果を残さなければいけない立場でした。古田はというと、捕手という成長に時間のかかるポジションで、社会人1年目という立場ながら堂々と投手陣をリードしていました。
事前に収集した対戦相手のデータはもちろん勉強していたでしょう。さらにそのデータを生かすため、試合の中で感じたことを融合させながら工夫を重ねて国際大会で結果を残していきました。初見の相手も多いため、国際大会で必要な適応能力、対応能力というんですか、そういった力があったんでしょう。
その後のプロでの活躍を予知できるなら別ですが、当時から意識の高さや頭の良さを持っていたとはいえ打撃はまだ成長途上でした。全日本で一緒に練習していても、バッティングで古田に負けるとは感じたことはなかったですね。さすがにその当時は、打撃に関してはまだ頼りないなと感じていたのは確かです。
でも、場慣れというんですか、打席の中でうまく対応して徐々に腕を上げていきましたね。国際舞台で自分の最高のパフォーマンスを発揮することは簡単ではありません。その大会に合わせて、五輪ならその期間に合わせて調整するのですが、思い通りにいかないこともあります。絶好調ではなくてもどうにかできるよう、考えたり工夫したりすることも大事なんです。そのあたりの意識、意欲が古田の場合は高かったんでしょうね。
ソウル五輪での銀メダル獲得に貢献した後、古田は社会人のトヨタ自動車で結果を残し、89年ドラフトでプロ入りしてくることになります。あの当時は関根潤三監督から新監督に交代するタイミングでした。そこで古田は野村克也新監督と出会うことになります。
これも運命でしょうね。プロ入りと同時に名捕手だった監督から様々なエッセンスを吸収できた。これは野球人生に大きく影響したに違いありません。打撃では負けないと言っていた私ですが、古田はプロ2年目の91年、あの落合博満さんを抑えて打率3割4分で首位打者を獲得しました。
プロ通算2097安打を放ち名球会入り。ゴールデン・グラブを10度も獲得しています。リーグMVPにも2度輝いています。ここまでの活躍を実現させたのは、本人の努力のたまものでしょう。
野村さんから多くの野球哲学をたたき込まれ、自分なりの解釈で昇華させて名捕手へと成長を遂げた。あの88年のソウル五輪の時代から何年もの時を経て、一緒に戦ったメンバーが世の中で活躍する姿を見ているとうれしいです。ユーチューブの番組も面白いしね。古田をはじめ、プロの世界でトップ選手になっていく選手というのは、考えたり努力したりする力がある人物なんだとつくづく感じます。












