【中島輝士 怪物テルシー物語(30)】今では球界を代表する捕手として、早々に名前が挙がる存在。1988年ソウル五輪の代表メンバーで主戦捕手として活躍した古田敦也(トヨタ自動車~ヤクルト)は、全日本の選手として経験を積むうちに目覚ましい成長を遂げていきました。

 もともと立命大4年時、87年8月に開催された五輪予選を兼ねたアジア野球選手権でも代表入りしていました。鈴木義信監督(東芝)、川島勝司ヘッドコーチ(ヤマハ)からの評価も高かったですが、捕手というのは経験がものをいうポジションですから、同じく代表捕手だった應武篤良さんの方が安定感を感じていました。

 これは有名な話ですが古田は87年のドラフト会議では、メガネをかけている捕手だからという理由で指名がかかりませんでした。今では古田本人が実力と実績で“定説”を覆しましたが、当時は相当に悔しい思いをしたことだろうと思います。

 実は私は古田をプリンスホテルに誘っているんですよ。結果的に実現はしませんでしたが、私としても実力のあるいい捕手だと認識していたことが伝わると思います。古田は社会人1年目(トヨタ自動車)の88年、都市対抗ではNTT東海(名古屋市)の補強選手として出場し、準優勝に貢献するなどメキメキと実力を伸ばしていきました。

 ソウル五輪のシーズンが社会人1年目であり、全日本の扇の要・捕手というポジションを任せるには大きな決断が必要でしょう。国際大会の経験の少なさがマイナスに作用しないか。そんな懸念がなかったといえばウソになるでしょう。

 應武捕手は広島・崇徳高では黒田真二投手(後にヤクルト)とバッテリーを組み76年春のセンバツで優勝しています。その秋には近鉄からドラフト指名されるも拒否し、早大に進みました。五輪の時点では新日鐵広畑に所属しており、経験値では古田のはるか上をいっていたはずです。

 しかし、五輪直前のイタリアでの世界選手権では應武さんと古田が併用される中で、若き古田が目に見える成長を遂げていくことを感じました。そのタイミングだったと思うんですが、私は應武さんに「このままじゃ古田に抜かされかねないよ」と話した記憶があります。

 ソウル五輪の首脳陣も古田が五輪本番でも十分にやれると判断したのでしょう。古田の正捕手起用が固まり、ソウル五輪での結果につながりました。当時から投手陣と積極的にコミュニケーションを取っていた印象はあります。

 投手たちも、金属バットを担いだ海外の猛者たちをどう抑えるのか、一生懸命に考える古田を認めていたと思います。私はリーチがあったので対応できましたが、当時の国際大会でのストライクゾーンは日本より外角にボール1個広いといわれていました。各国の審判にもクセがあり、本当に経験が大切だったと思います。そういった情報を収集、吸収し短時間で成長した。次回も、もう少し古田の話をしたいと思います。