【中島輝士 怪物テルシー物語(35)】1988年に韓国・ソウルで行われたオリンピックでは20人の代表選手から13人ものプロ野球選手が誕生しています。その中からさらに3人の名球会メンバーも輩出というのはすごいことだと思っています。古田敦也捕手(トヨタ自動車)、野茂英雄投手(新日鉄堺)、野村謙二郎内野手(駒大)というのがその面々です。

 これまで古田、野茂に関してはお話ししてきましたが野村謙二郎についてもお話ししておきます。ソウル五輪のメンバーは社会人17人、大学生3人という構成です。当時の印象では社会人のレベルが高く、大学生が食い込むのは難しかっただろうなというイメージです。

 野村謙二郎が全日本入りした要因としては、実力ももちろんですが、代表の投手コーチを務めていた山中正竹さんの存在も大きかったと思います。山中さんは大分・佐伯鶴城高から法大、社会人の住友金属で活躍。ソウル五輪当時は住友金属の監督としてコーチで参戦していました。

 山中さんは法大時代、1年生からエースとして活躍し東京六大学記録の通算48勝を記録しているレジェンドです。1年後輩には「法政三羽ガラス」と呼ばれた田淵幸一さん、山本浩二さん、富田勝さんがいて、在学中に3度の優勝を経験されています。バルセロナ五輪では監督として銅メダル獲得。NPBでもベイスターズの専務を務められるなど、野球界の発展に尽力された人物です。

 野村謙二郎のお父さんは佐伯鶴城高のOBであり、86年から88年に広島で監督を務めた阿南準郎さんと三遊間を組んでいたアスリートでした。つまり、山中さんの高校の先輩です。お父さんの野球センスは野村くんに引き継がれていて、皆さんが知っている通りの身体能力が高い遊撃手でした。本人の能力が評価されての代表入りであることは当然として、山中さんと野村くんのお父さんのご縁というのは無関係ではなかったと思います。

 ソウル五輪開催年の6、7月に行われた日米大学野球選手権に野村くんは代表選手として出場し、後にソウル五輪決勝で対戦する米国代表の隻腕左腕、ジム・アボットから頭部死球を受けたという記録があります。それだけに米国を倒して五輪金メダルをという思いは強かったでしょう。

 ソウル五輪では野村くんはレギュラーという立場ではありませんでした。スタメンでの出場機会はなかったものの、3試合に出場して銀メダル獲得に貢献した仲間です。プロ入り後はカープの遊撃としてトリプルスリーも達成し、引退後には監督も務めました。

 ソウル五輪代表の大学生には慶大・大森剛(のちに巨人ドラ1)と中大・笘篠賢治(のちにヤクルトドラ3)の2人もいました。大森は96年のオリックスとの日本シリーズで2本塁打するなど印象に残る活躍をしています。笘篠はプロ入り1年目の89年に32盗塁を記録し、新人王にも輝きました。

 ソウル五輪には改めて素晴らしいメンバーが選出されていたんだなと思いますね。