【中島輝士 怪物テルシー物語(38)】私が福岡・柳川高を卒業した後に所属した社会人野球のプリンスホテル。このチームは現在はもうありません。寂しい話ですが社会情勢の変化というものは我々ではコントロールできません。そういう言葉で片付けたくはないですが、時代の流れというものでしょう。
1981年にプリンスホテルに入社。投手として野球部でお世話になり、3年目の83年に右肩を痛め野手に転向しました。プリンスホテルというチームとしては83年から93年まで都市対抗野球に11年連続で出場しています。87年にベスト4、89年に初優勝を経験しています。
その後も96年、97年の都市対抗にも計14回の出場を果たしました。そのほかに日本選手権で92年に準優勝、スポニチ大会で優勝、準優勝をそれぞれ2回という戦績を残してきました。ただ、90年代半ば以降、不況のため企業チームの休廃部が相次ぎ、プリンスホテルもその例外に漏れず2000年に廃部となりました。
それは残念でなりません。創部から22年間で私を含めた31人がプロ入り。多くの選手が各チームの主力となり、引退後に指導者として野球に関わっている人間も何人もいます。
出世頭は石井浩郎ですかね。秋田高から早大に進学し87年にプリンスホテル入り。私が野手転向後、4番を打っていた頃に入ってきた後輩ということになります。私が88年ドラフトで日本ハム入りした後の89年から石井がプリンスホテルの4番を打ち、同年ドラフトでは3位で近鉄入りしています。社会人では在籍3年で32本の本塁打を放っています。
プロでは近鉄、巨人などでプレーし近鉄時代の94年は111打点で打点王を獲得するなど、NPB通算162本塁打という成績を残しました。ただ、そこからがすごいんです。02年を最後に現役を引退すると評論家、西武二軍監督などを経て実業家として飲食店の経営などで手腕を発揮。10年には自民党から秋田選挙区で参院選に出馬し、そこから3選し国土交通副大臣、内閣府副大臣、復興副大臣ですよ。もう、これは大先生です。
プリンスホテルのチーム本隊の話に戻ります。独自のスカウティングでアマチュア球界から有力選手を獲得。結成当初から都市対抗優勝候補としてリストアップされていました。79年の創部直後の80年には初の都市対抗出場。81年、82年は出場できずでしたが、理由はあったと思います。投手として在籍していた当時の私は結果を残すことができず、遠征となれば寮に残留するわけですが、これ幸いとばかりにどんちゃん騒ぎをしてみたり…。意識が高くなかったのかもしれません。
それでもプリンスホテルは83年から11年連続で都市対抗に出場しています。85年からはチーム創設から携わっていた石山建一さんが監督に就任し、強さがホンモノになっていきました。私もその頃、ちょうど野手に転向していた時期でした。次回はそのあたりのことを詳しくお話ししたいと思います。












