【中島輝士 怪物テルシー物語(39)】このコラムで以前にも書かせていただきましたが、私の人生のターニングポイントは社会人3年目に経験した右肩の故障です。福岡・柳川高から投手として、プリンスホテルの野球部に入部。普通だったら、ここで野球人生が終わっていたかもしれません。ですが、当時の稲葉監督や石山助監督のおかげで野手転向というチャンスをいただきました。

 当時はDH制ではなく、投手も打席に立っていました。その時点で投手としては、打てる方の選手ではありました。打者に転向しても最初から打ててしまったとも書きましたが、実は野球ってそんな簡単なものではありません。練習もせずに打てたといっても、そこからいろんな経験をしてアドバイスをもらって、その積み重ねでその後の自分があるんだと思っています。

 何かの拍子で全日本にポーンと選んではもらったんですけど、そこに選んでもらったからこそやっぱり、もっと練習しなきゃいけないなとか、しっかり成長しなければならないと思い始めて歯車がいい方向にかみ合っていきました。全日本で日の丸を背負うという責任、重圧を感じるに伴って、もっとちゃんとやらないと自分のためにも周りのためにもならないと。日本代表でやるからには、恥ずかしい姿を見せられないですから。

 最初はただ、練習していれば楽しくて打ててたんですが、そこから打てない時期も出てくるじゃないですか。そんなタイミングでしたかね。1984年のシーズン途中からプリンスホテルにベテランの選手が移籍してきました。中本龍児さんという強打者で近大から社会人の大昭和製紙、ヤマハ発動機と2度の休部を経験され、プリンスホテルでチームメートになりました。

 この中本さんは全日本で4番を打っていた人です。後にロッテで3冠王になる落合博満さんが3番を打ってる時の全日本の4番ですよ。移籍でプリンスホテルに来た翌年の85年には引退してバッティングコーチになって、いろいろと教えてくれました。風呂場でね、2人とも真っ裸になって男同士でバッティング理論を語り合うわけですよ。身ぶり手ぶりで。本当にすごかったですよ。剣術の居合抜きみたいでしたね。本当に宮本武蔵みたいでした。私の目にはそう映りましたね。近大時代から有名で、中本さんの次に有藤通世さん(後にロッテで活躍)と言われたほどでした。

 中本さんと同時に右腕の鈴木政明さん(岡山・勝山高)も同じく大昭和製紙、ヤマハ発動機の休部の影響でプリンスホテルに加入していました。その2人が入ってプリンスホテルは変わりました。鈴木さんは20年連続で都市対抗に出場した唯一の選手です。広島カープで活躍された山根和夫さんの実の兄でもあります。

 今まで練習の仕方というのか、チームの空気がガラッと変わりました。当時の石山監督が2人をスカウトしてきたんでしょうけど、その思惑通りにプリンスホテルが本当にグッと変わりました。