【赤ペン!!特別編】「赤坂くん、僕のサインほしいの? ホント?」

 色紙に私宛てのサインを書く直前、長嶋さんは筆を止めて驚いていたそうだ。第2次監督時代、森祇晶氏との監督交代騒動が巻き起こった1998年のこと。スッタモンダの末に長嶋さんの続投が決まった直後、ぜひ色紙をとお願いしたのだ。

 マジックではなく毛筆で「洗心」と書き、宛名も入れてほしいと関係者に頼んだ。当時、私は最も長嶋采配に批判的な記者だったから、長嶋さんがびっくりしたのも無理はない。宛名は「赤坂」の赤の上が「土」ではなく「士」になっていた。

 監督交代騒動後、長嶋さんは球団事務所に電話をかける際、必ず最初に「監督の長嶋です」と名乗るようになった。それまではいきなり「(球団)代表いる?」と聞くのが常だったから、退団寸前までいったことは、よほど精神的にこたえたらしい。

 長嶋監督は2001年に退任し、翌02年からは終身名誉監督として東京ドームに足を運ぶようになる。当初は「練習からしっかり見る」と言っていたが、試合前まで現れないことが多かった。

 そこで私が「いい加減な人だな」と言っていると、後ろから左のカカトを蹴飛ばされた。ムカッとして振り返ったら長嶋さんがニッコリ笑って、「元気?」と聞いてくる。直立不動で「はいっ!」と答えるしかなかった。

 長嶋さんほど始終報道陣に囲まれ、その一人ひとりに特別な思い出を残した人はいない。その半面「シッシッてやりたい時もあります。でも、来る者は拒めませんからね」「こうしてみなさんの前で長嶋茂雄やるのも、疲れるんですよ」と時々は本音ももらしている。

 監督復帰した93年は、独特の言語の解釈に悩まされたこともある。野村監督率いるヤクルトとの試合に勝ったら「アレこそアレですから、アレこそうちのキャンペーンです」。一体「アレ」とは何だったのだろう。

 屋外球場にやってくると腕を広げて「今日は強風だね。でも風はないね」。風があるのかないのか、どっちなんだ?

 当時「巨人キラー」として知られた川崎憲次郎に連戦連敗。なぜ打てないのかと聞くと、ひときわ甲高い声でこう叫んだ。

「だって打てないものは打てないんだから、しょうがないでしょう! どうやって川崎を打てばいいんですか? みなさん、教えてくださいよ!」

 こんな監督談話を口にできたのも、長嶋さんだけだろう。球史最高のエンターテイナーは取材対応でも私たちを楽しませてくれた。長嶋さん、ありがとうございました。