3日に89歳で亡くなった巨人の長嶋茂雄終身名誉監督を本紙専属評論家の伊原春樹氏が悼んだ。選手として1976、77年に長嶋監督の下でプレー。引退後は西武コーチとして日本シリーズで対戦した伊原氏が、長嶋さんとの秘話を明かした。
長嶋さんは私がトレードで太平洋クラブライオンズから巨人に移籍した当時の監督だった。六大学時代から長嶋さんは野球少年の憧れの的。私もサードをやっていたのでいつも長嶋さんの動きをマネしていた。
その長嶋さんが声をかけてくれたのが、巨人移籍直後の多摩川グラウンドでの合同自主トレ中だった。1日も早くチームに慣れるように気をつかってくれたのだろう。練習後、ライオンズから一緒に加入した加藤初投手と田園調布の自宅で食事をごちそうになった。スターの自宅の大きさに驚いたのを昨日のことのように覚えている。
ベンチでの長嶋さんは常に勝負に熱い監督だった。悪いプレーがあると監督はベンチ裏にスッと下がる。そうするとしばらくの間、すごい音が鳴り響くのが常だった。
ある日、神宮球場でのヤクルト戦で自軍のまずいプレーがあった。長嶋さんはすぐにベンチ裏に行き、閉めたドアをガツンと蹴った。
その衝撃でドアが開かなくなり、長嶋さんが中に閉じ込められてしまった。普通なら総出でドアを開けるところ、当時の国松(彰)コーチが「放っておこう。少し頭を冷やした方がいい」とそのまま試合が続けられた。
当時のサインは長嶋さんが口頭で「エンドラン」と言い、それを近くの2、3人の選手がダミーを交え三塁コーチャーに伝えていた。ある日、長嶋さんはよっぽど心配だったのか「(サインを)出したか? 出したか?」と何度も確認して、相手ベンチから丸分かりだったのが思い出される。
私が西武に戻ってからは1994年に日本シリーズで対戦した。長嶋さんといえば第2次政権での大型補強から豪快な野球のイメージがあるだろう。だが、元々は川上監督の野球をしっかり伝承していた。奇をてらうことのない非常に手堅い野球が根底にあった。
日本球界にとっても私にとっても最大のスターが旅立ってしまった。ご冥福をお祈りいたします。(本紙専属評論家)













