【中島輝士 怪物テルシー物語(47)】私が日本ハムに入団して1年目の1989年、現役晩年で中日から移籍してこられた大島康徳さんに大変お世話になりました。右の大砲ということで私とプレースタイルが重なりますし、打撃面でかなり参考にさせてもらいました。
大分県立中津工高で4番・投手として活躍された大島さんは68年のドラフトで中日から3位指名を受けて入団。当初は投手でしたが、入団から間もなくして野手に転向されています。そういった部分でも社会人時代に投手から野手に転向した私と共通点があります。
大島さんは74年に一塁、三塁、中堅で112試合に出場し中日のリーグ優勝に貢献。同シーズンの最終戦は長嶋茂雄さんの引退試合であり、中日の選手代表としてミスターに花束を渡されたそうです。その年の日本シリーズではロッテと対戦して5試合にスタメン出場。日本一を逃してしまうことになりますが、最終第6戦ではマサカリ投法の村田兆治さんから同点本塁打を打っています。
79年はシーズン全130試合に4番打者としてフル出場。36本塁打、打率3割1分7厘、リーグ最多の159安打、打点でもキャリアハイの103を記録しました。83年には36本塁打で広島・山本浩二さんと並び本塁打王も獲得されています。
まさに中日の一時代を築いてきた右の大砲なのですが、87年オフに星野仙一監督の方針で田中富生さん、大宮龍男さんとの交換トレードで日本ハムに移籍。私がドラフトされる88年はチーム最多の63打点を記録していました。
私の1年目、89年7月8日、近鉄戦で阿波野秀幸からサヨナラ適時打。8月13日の近鉄戦で通算350本塁打を達成しています。90年8月21日のオリックス戦では佐藤義則さんから通算2000安打を達成され、名球会入りを果たしました。39歳10か月での達成は当時の最年長記録でした。引退後には日本ハムの監督もされ、球界に多大な貢献をされました。
目の前で数々の名場面を見させてもらいました。そんな大島さんを打撃の師匠のような感じに思い、若かりし日の私は練習に明け暮れていました。その大島さんは2021年6月30日、大腸がんのため東京都内の病院で亡くなられました。まだ70歳でした。17年にはがんであることを公表し、ブログなどで闘病記を記されていました。18年5月7日には自らの闘病生活などを書き記した著書「がんでも人生フルスイング『中高年ガン』と共に生きる“患者と家族”の教科書」を出版もされています。
亡くなる前には大阪に立ち寄るたびに私に声をかけてくださり、食事を共にさせていただきました。4年前かな、東京の赤坂で大島さんをみんなで囲む機会がありました。古屋英夫さんや田中幸雄、ガッツこと小笠原道大も参加してくれて、その時に撮影した写真が最後になりました。
公私ともにいろいろと世話になった大島さん。口は悪い人でしたよ。でも、いつも気にかけてくれてね。優しいから、いつも遅くまで飲みに付き合ってくれました。体調が悪くても無理されてたのかなと思います。本当に残念でなりません。












