【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(22)】前半戦だけで8勝を挙げたプロ2年目の1985年、僕は監督推薦で初の球宴出場を果たしました。全パの投手部門でファン投票1位は右ヒジ手術明けながら開幕投手から11連勝をマークし、そのうち日曜に7連勝したころから“サンデー兆治”と注目を集めていたロッテの村田兆治さん。ほかにも西武の東尾修さん、阪急の山田久志さんに佐藤義則さんといったそうそうたるメンバーが名を連ねた中、僕と同じ高卒2年目だった西武の渡辺久信、日本ハムの津野浩も選出されて“花の19歳トリオ”と話題になったものです。実際は球宴第1戦の前日に僕だけ二十歳になっていたのですが…。

 出番が回ってきたのは川崎球場で行われた7月21日の第2戦でした。2―4の5回から全パの3番手として登板し、いきなり阪神のバースに中前打を許すと、代走で出てきた巨人の松本匡史さんに二盗を決められ、巨人の原辰徳さんに中前に運ばれて1失点。続く6回にも一死満塁から松本さんの中犠飛で追加点を奪われました。

 こう言うと打たれた言い訳みたいに思われるかもしれませんが、初出場の球宴では試合前にちょっとした“事件”が起きていたのです。僕の記憶が確かなら、村田さんに「なんだ、その体は! ちゃんと腹筋しているのか」と言ってV字腹筋のお手本を見せていただいた後でした。中継局の日本テレビの解説者として球場を訪れていた金田正一さんが僕の近くに来て「投球フォームがきれいな分、ボールの出どころが見やすい。隠すような感じで投げてみなさい」と、おっしゃるのです。

 いくら高卒2年目で世間知らずだった僕でも、400勝投手の金田さんがどれだけ偉大な方かぐらいは知っていました。もちろん二十歳の若造が首を横に振れるはずもありません。そして言われた通りに投げていたら、次第に右ヒジがシビれてきました。慣れないフォームでヒジに負担をかけてしまったのでしょう。

 球宴を終えて事の顚末を投手コーチの河村英文さんに報告したら、烈火のごとく怒られました。「部外者の言うことを聞くな!」。まったく、おっしゃる通りです。いくら金田さんに悪気がなかったといっても、何かあった場合に責任を取ってくれるわけではありません。実際、後半戦の開幕投手として中4日で7月26日の西武戦で先発しましたが、右ヒジには違和感が残ったまま。そこから1か月近く、ヒジの状態を確認しながらリリーフで様子を見ることになってしまいました。

 前半戦だけで8勝したのに、終わってみれば9勝止まり。プロ入り後は比較的順調だった僕の野球人生に、少しずつ暗雲が垂れ込めていったのです。

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。