【取材の裏側 現場ノート】オイシックス新潟の陽岱鋼外野手(39)が1日、引退会見を行った。残念ながら記者は別の仕事で会見には行けなかったが、21年間のプロ生活に終止符を打った今の気持ちを、晴れ晴れと語り尽くしたのではないかと思う。何不自由なく話す流ちょうな日本語は、来日当初の彼が最初に最も努力したことのひとつでもあるからだ。
15歳で親元を離れ、故郷・台湾から福岡の強豪・福岡第一高に野球留学。聖地・甲子園を目指すだけなく、その先のプロ・NPBプレーヤーになることを夢見て、海を渡った。高校進学の際に、甲子園を夢見る15歳が県外に野球留学をすることは日本人なら当時から珍しい選択ではない。だが、当時の陽にとっては、目指した地は文字通りの〝外国〟。言葉すらわからない状態で『夢』だけを頼りに日本にやってきた。
ここが、日本人の球児とは違う。学校生活、部活においても、常に立ちはだかっていたのは文化や言葉など、コミュニュケーションにおける壁だ。そんな決して低くはないハードルを15歳の陽は不断の努力で乗り越えた。高校3年間は毎日、朝5時に起床。独学で平仮名や漢字の読み書きを覚え、日本の歌謡曲を聞き、意味や発音を視覚・聴覚、記憶の全てを連日、フル動員してインプットしていったという。
記者がこの話を知ったのは日本ハムを担当し、彼の記事を書くようになってから。もうそのころは通訳の必要性など全くなく、取材もジョークを交えて日本語で会話し、食事などプライベートな場でも、何不自由なくいろいろと語りあった。最もビックリさせられたのが、オフにカラオケに行ったときのこと。彼が「お気に入り」としてチョイスしてマイクを取ったのは中島みゆき、中西保志、久保田利伸など1980~90年代のJ―POP。来日する前に日本ではやっていた曲だ。「何で、そんな曲まで知ってるの!?」と驚く記者を横目に、彼は次々と軽快に歌いあげていた。しかもプロ顔負けの歌唱力で、採点機能付きの機械では90点以上を連発していた。日本語を覚えるための術として、彼は異国の名曲すらも教材にしていた。
常に明るくポジティブな性格で、それでいて日本人以上に礼儀正しかった。走好守全てで彼のプレーには華があり、ファンからも愛されるプレーヤーだった。13年の盗塁王や外野手として4度(12~14、16年)のゴールデン・グラブ賞などNPB時代の功績は、現在でもなお台湾球界の英雄の一人として語り継がれている。22年からは米・独立リーグに渡るなどひとりの選手としても、探求心の塊のようなキャリアを貫いた。
来日後に覚えた日本語で座右の銘としていた言葉は「努力は必ず天才を上回る」。15歳の少年が片道切符で来日し、挑戦し続けたプロ21年間の日々に心から敬意と拍手を送りたい。(元日本ハム担当・赤坂高志)












