【中島輝士 怪物テルシー物語(57)】プロ3年目を終えても「九州の怪物・テルシー」は脱皮できずに悩む日々を送っていました。ただ、近藤貞雄監督や近藤和彦打撃コーチら首脳陣が期待して見守ってくれていることは理解していました。あとは自分がどうするかだけなんです。

 期待、注目されていることは実感していました。取材で球場を訪れる球界OBの方々からも、様々な助言や叱咤激励をいただきました。

 私がプロ3年目だった1991年、世界のホームラン王・王貞治さんは巨人の監督を退任され、NHKの解説者を務められていました。西武、ヤクルト、日本ハム、横浜など複数の球団から監督就任を打診されていたそうですが、94年オフに福岡ダイエーホークスの監督に就任するまでは評論家としてグラウンドに足を運んでおられました。

 東京ドームを王さんが訪れた時には私の打撃練習をずっとケージの外から見てくれたこともありました。その時の私からの印象といえば、かっこいいなあ、体も大きいなあ、オーラがあるなという感じでしたね。胃がんを患う前の王さんで、本当にガッチリした体格が印象的でした。

 王さんが私に残してくれた言葉は今でも忘れないですね。「中島くん、僕にねえ、君のその体があったらねえ、ホームランを1000本打てたよ」

 これって名言ですよね。王さんの現役時の身長は177センチ、体重80キロほどでした。私は188センチ、92キロでしたからね。王さんとの初めての出会いの思い出はこういうストーリーでした。

 私と同じ体格を持っていれば王さんなら1000本塁打打てる。その言葉は今でも記憶に残っています。しかし、3年目の私はプロ入り以来、最低の打率を残してしまう結果となりました。チームとしては前半戦はAクラスにとどまったものの、最終的には4位となりました。打線ではシーズン中盤から1番・二塁に定着した白井一幸さんが打率3割を記録するなどし最高出塁率とカムバック賞を受賞されました。

 4番には来日2年目のマット・ウインタースが定着し、2年連続30本塁打以上を記録するなど、上昇する目はあったんですが、うまくかみ合っていませんでした。このシーズン限りで近藤貞雄監督が3年目にして退任されました。66歳という高齢もあっての勇退でした。

 後任には日本ハムOBでもあり、73年の後期に日拓ホームフライヤーズ時代に監督を務めた土橋正幸さんが再登板することになりました。84年から86年のヤクルト監督やプロ野球ニュースの解説者としての印象が、ファンの方々にはあるんじゃないでしょうか。

 私は入団4年目を迎えるにあたって初めての監督交代という節目を迎えます。新監督を迎えるということは流れを変えるきっかけでもあります。この4年目を迎えるにあたり、実際に私は新たな試みを実行することにもなります。91年、秋のドラフトでは2位で同志社大から片岡篤史が入団してくることも決まりました。

 2年目から三塁にコンバートされていた私としてはライバルの出現かもしれませんが、片岡が三塁に定着することで、私は以前から守っていた一塁、外野手で出場できたとあって流れが大きく変わることになります。