【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(13)】プロ1年目の1992年は二軍戦4試合に登板し、計7イニングを投げて防御率5・14という成績に終わりました。来る日も来る日も練習に明け暮れ、一軍から声がかかるのは打撃投手としてのみ。ドラフト10位指名の選手なんて、こうやって消えていくのかなあ…とマイナス思考になったりもしました。

 そんな時に前向きなアドバイスをくれたのが、1984年のドラフト1位左腕で前年から打撃投手に転身していた2学年上の田口竜二さんです。僕が打撃投手として一軍に呼ばれるのは、当時の本拠地だった平和台球場で試合がある日。つまり田淵幸一監督や権藤博投手コーチが見守る中で投げるわけです。田口さんは「せっかく一軍の首脳陣が見ているんだから、打たせるんじゃなくて抑えるつもりで投げたらいいんじゃない」と背中を押してくれました。

 本来なら打撃投手の仕事は試合前の打撃練習で打者にストレスなく打ってもらうこと。野手にしてみればいい迷惑でしょうけど、せめて爪痕を残さないことにはこちらも浮かばれない。実際にブルペンで投球練習を見てもらえる機会につながったこともありました。

 もちろん自分なりに努力もしました。1年目に取り組んでいたのがスナップスローの反復練習です。ヒジを支点に手首を柔らかく使ってボールをリリースするもので、地味なことですけど毎日のようにやっていました。すぐに試合で成果が出ることはありませんでしたが、ボールを離す感覚が良くなっていったのは確かです。

 2年目を迎える前に田淵監督が成績不振のため辞任し、新たに西武から根本陸夫さんが専務取締役兼監督として招へいされたことも、僕には結果として追い風となりました。1か月以上に及んだ秋季練習では毎日のように紅白戦。同様に雁の巣球場の外周で毎日のように10キロ走も課せられましたが「全選手を横一線からスタートする」との言葉に偽りはなく、順番に登板機会がめぐってきました。

 投手として試合に投げさせてもらえるのはうれしいことです。しかもこちらはアピールしなければいけない立場。身内相手の紅白戦とはいえ一生懸命でした。最初の登板こそ2回3安打3失点と打たれましたが、その後の5試合では計14回を投げて2失点。そのかいあってか、オフに臨んだ初めての契約更改交渉では10万円アップしてもらえました。

 翌春キャンプでも根本監督の紅白戦ざんまいの方針は変わりません。プロ2年目を迎え、周りを見る余裕ができたことも大きかったのでしょう。キャンプを無事に終え、一軍のオープン戦でも登板機会をもらい、根本監督の初陣となった3月1日の阪神戦では“初セーブ”もマーク。しかし、開幕一軍も見えてきた矢先に僕は予期せぬアクシデントに見舞われてしまいました。