【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(11)】この連載を書くに当たり1991年11月23日、つまりドラフト翌日の地元紙、北日本新聞の記事を読み返してみたら「とにかくうれしいです。何でもいいから早く返事が聞きたかった。2年間のブランクがあるので今まで以上に頑張っていかなければ」「プロからプロと呼ばれる選手になりたい」といった前向きな僕のコメントが掲載されていました。
右肩痛で投げられなくなり、北陸銀行を退職してから丸2年。12球団から指名された計92選手の中で名前が呼ばれたのは92番目でしたが、僕にとってはプロ野球の世界に入る資格を得たことだけで十分でした。一番下ということは追い抜かれる心配もなく、上だけ目指せばいいのだから気も楽です。
担当スカウトの池之上格さんには、ずいぶんと気を使っていただきました。ドラフト会議で僕の所属先を家業の「田畑建工」にしていただいたのもそうですし、6日後の指名あいさつでは「指名は最後だったけど…」と12球団トップで仮契約。前年まであったドラフト外での入団なら、わずかな「支度金」で終わっていたはずの契約金が800万円、年俸400万円と思っていた以上の金額でした。あれから30年以上がたった現在の二軍選手の最低保証年俸が440万円、育成選手は240万円であることを考えれば、恵まれていたと思います。
両親に高岡第一高の元監督、竹澤甚一さんが同席した食事の席でも、池之上さんには「ドラフトでは一番最後の92番目に名前を呼ばれたが、その中で一番の選手になってほしい。きみの頑張り次第だから、プロになりたいと思った気持ちを忘れずにな」と背中を押していただきました。
それからもう一人、プロ入り前の僕にゲキを飛ばしてくれた方がいました。チームメートとなる2学年上の湯上谷宏(現竑志)さんのお母さまです。当時は富山県出身のプロ野球選手が珍しく、しかも同じチームでお世話になるんだからと、住所を調べて黒部市にあるご自宅を訪ねた時のことです。ガメさんのお母さまからは「しっかり頑張って稼ぎなさいよ」とエールを送られました。
ドラフト会議から約1か月後の12月19日にメディカルチェックを受け、翌20日には博多駅筑紫口の目の前にあったホテルセントラーザ博多で入団発表。多くのメディアの前で「目標とする投手」に広島の大野豊さんや津田恒実さんの名を挙げて「大工で鍛えたスナップを生かして、若田部くんの上を行くように頑張りたい」と意気込み、その後の質疑応答では「一番欲しいものは?」との問いに「150キロのボールを投げられる肩」と言って自分なりの“色”を出したように記憶しています。












